第16話 書き込み主
壁に画びょうで刺された、くすんでぼやける写真の一つ。店主とその常連客が仲の良さそうに肩を組む中、久井明青年がビールを掲げて笑っていた。鈴はそれを見て、最早安堵ともいえる息を吐いた。
事件の被害者であり、犯人を目撃したという三草圭太。そのクラスメイトであったという女性の証言によれば、彼はどこかで犯人を見たことがあったという。
体格なのか、声なのかは分からないが、ともかく何か思い出させるものがあったのだろう。実際に会っていながら明瞭に思い出せず、どこで会ったかも定かでない――バイト先の客と店員という関係は、そうであっても不思議でないのではないだろうか。
前に話を聞いた3人と比べれば、三草圭太のバイト先の店主に話を聞くのは簡単だった。何しろただ店に入ってお喋り好きな客を演じればよい。
白い髭を生やし、黒いエプロンをびしっと決めた還暦に差し掛かるだろう店主は、気の良く話に応じてくれた。
20年以上は前からある居酒屋は、古びた雰囲気はあれど寂れた印象はない。店の外にあった看板は何かの汚れが付着しながらも現役で光っていたし、壁に貼られた写真の中には比較的最近のもので、大勢が集まって店主を囲むものがあった。無論、そこに久井明の顔はない。
夜になれば大盛況なのだろうその店で、ノンと鈴は昼食を兼ねてカウンター席に座っている。店内に人は鈴達以外に二組いたが、店主はこちらに顔を向けてくれた。
「はい、熱いからね。気を付けなよ」
ノンの前に焼きおにぎりが置かれる。続いて鈴の前に冷ややっこ。
どちらも基地で食べられるものであるが、だからこそ雰囲気の違いが楽しめる。冷凍食品の袋を引っ張るのではなく、カウンターの向こうから出される感覚は鈴にとって新鮮そのものだ。
割り箸を手に取り、縦に割る。きちんと真っ直ぐ折れた経験はなく、今日もまた例外ではなかった。
「こういうのって、なんだか良いですね。ノンさんはどうですか?」
ささくれ立った割り箸を撫でて、鈴はノンの顔を覗き込む。ノンはおしぼりの袋を開けながらこちらに視線だけ向けた。
「何が?」
「お店で食べること、でしょうか。わたし、こういうの初めてで。楽しいとは思いませんか?」
「……そういうものかな」
静かにぴりぴりと袋が破れ、中から出てきた湯気がノンの顔を白くする。
「基地にも飲食店はある。何か手伝いでもして金を貰ったら、行ってみるといい。君なら何でも満足しそうだ」
「なら、いつか一緒に行きましょうよ。完全栄養食ばかり食べているのはどうかと」
彼女の寮で覗き見た段ボール箱を思い出す。わざわざ箱買いなんてしているのだから、お気に入りなのは間違いないだろう。
実は、以前逢坂が口にしていたのを見たことがあった。スティック状のそれは、1、2分で食べられそうな大きさだった。曰く味はそこそこ、とのことだが、基地では隊員御用達のポピュラーな品なのかもしれない。
咎めるような言い方だったからだろうか。ノンは少し眉を顰める。
「あれは優れた食品だよ。健康を謳うだけはある。実際、あれを食べ始めてから身体はよく動くさ。腹持ちも良いしね」
彼女の口から素直な賞賛が発せられたのに軽く驚きつつ、鈴は会話を続ける。
「でも、美味しいのですか」
「問題ない。……流石、未来の食技術といったところだ」
あっけからんとした顔つきとは対照的に、どこか自嘲的な響きがあったのは気のせいでないだろう。
隊員という立場のせいで忘れがちだが、彼女も時災者の1人なのだったか。彼女が元々いた時代に、話題にした完全栄養食は無かったのだろうか。
であれば、他の未来の食品も楽しめば良いのに。
そんなことを思ったが、きっと呆れられるだけなのだろう。胸の奥に仕舞って、大人しく鈴は冷やっこに取り掛かることにした。
床に足をつけることのできない高い椅子と、ラミネートされたメニュー表が置かれている感覚には慣れない。
足をぶらぶら揺らしたい気持ちを抑えていると、目の前に料理を作り終え暇そうにしている店主が来た。彼に顔を上げ、鈴は反対側の壁に飾られた例の写真を指差した。
「あの写真って、いつ頃撮られたものですか」
店主はぼんやりとした調子で首を傾けた。
「んー、20年ちょっと前だったかねぇ。懐かしいなあ。そん時の常連さんだよ」
懐かしそうに彼は目を細める。
彼の眼には当時の店内が映っているのだと鈴はなんとなく思った。
「あの……ビールを持っているお兄さん」
「久井な。よく来てたんだけど、丁度写真撮ったあたりで来なくなってさ。知り合いかい?」
「今日はその弟さんと会って。それと、わたし達は三草圭太さんの話を伺いに」
「……あぁ、圭太か。その久井と入れ違いで、バイトに入ってくれた子だ」
気の良さそうなその顔に、僅かな陰りが見えた。
冷やっこに醤油を垂らし、鈴は尋ねる。何かありましたか――。
「行方不明なんだよ、14年前から」
鈴はノンと顔を見合わせた。
行方不明者、それは彼女達が当初から追っていた書き込み主へ繋がる情報だ。
三草圭太の似顔絵を見た上で、彼に同情し未来でも事件の情報を発信するような誰か。圭太の交友関係を探ろうと、かつてのバイト先に来た訳だが、圭太自身が行方不明だったとは。
確かに、掲示板にあった通り事件当日に彼は犯人を見ているはずだ。事件に最も強い執着があるのも、被害者である彼だろう。だから驚くような話でもないのだが、それでも鈴は意外に思った。
まさか、ここまで簡単に得られるなんて。
ノンが慎重に口を開く。
「それは、隣町で?」
「そ。引っ越してからもバイトには来てくれていたから、付き合いはあったんだが。警察は家出って見ているとは聞いてる。けど親想いのあいつが、親父見捨ててそんなことするとは思わねんだけどなあ」
「……ありがとうございます。確認ですが、圭太さんの現在の名前は?」
ノンが問うと、店長は快く答えてくれた。
事件関係者と同姓同名の時災者を見逃していたなんてことはないはずだ。
事件前は母親の苗字を使っていたのだろう。死別後、父親の旧姓に変えて使っていたと考えられる。
店長に聞いた名前をメモして、昼食を摂り、居酒屋を後にする。
ようやく書き込み主が判明した興奮と、あまりの呆気ない結末に冷やっこの味は覚えていない。むんむんと纏わりつく湿気の中、その冷たさだけが印象に残った。
基地からの迎えは、居酒屋の反対車線にあるスーパーの駐車場に、ひっそりと停めてあった。行きと同じく車に人は乗っておらず、二人が扉を閉め、ノンがスマホで何らかの操作をすると同時、勝手にエンジンがかかった。ゆっくりと車体は動き始め、そのまま駐車場を出る。
このまま目を閉じれば、醒ました頃には基地に着いているだろう。カーテンが閉じられた車内は薄暗く、ぽつぽつ鼓膜を撫でる雨音も眠りへ誘う。町中を歩き回ったり、情報を整理したりで疲れも溜まっていた。多分、すぐに寝られる。
だが、どうしてか大人しく眠る気分になれなかった。瞼は重たく、意識はぼうっと霧がかっているのに眠ってはいない。
ノンはというと、やはり窓を、つまりはカーテンの布を眺めるだけだった。きっと、鈴がいようといまいと車内では同じ姿勢なのだろう。
彼女とて眠ればいいのに、一向にその気配を見せない。そういえば彼女の寮部屋に泊まったときも、鈴は彼女よりも先に意識を落としていた。ひょっとして、警戒でもされているのだろうか。
そう、とりとめもないことを考えていた。
揺れに身を預け、意識は起立したまま。いつ町を抜けたのかも分からず、車は基地の中に入っていて、扉が開いた。眠ってもいないのに、少し気は休まった気がする。
空は晴れていた。
**********************
三草圭太に事情を聞く――直接彼の住む寮に赴く準備をするといってノンは鈴と別れた。
時災者の情報が異常なほど徹底管理されているのは鈴もよく理解している。名前が分かったからといって即座に動ける訳ではない。外出の報告書などの仕事もあるようで、憂鬱げな顔で彼女は本部庁舎へと入って行った。
寮の廊下を歩いていると、すれ違った白野が声をかけてきた。最近、基地で美味しいレストランを見つけたから一緒に行かないか、というありがたい話だ。いつか、と笑って返すと白野は嬉しそうにガッツポーズをしていた。彼女なりに基地の生活を楽しもうとしているのだろう。
そうして、自分の寮部屋へと戻った。
結局眠れず疲れもとれなかった鈴は、部屋に入ってすぐ、畳まれたままの敷布団に体を沈めた。上からかかった圧で布団は変形し、徐々に広げられていく。その上に寝転ぶ鈴も動かされ、いつの間にか布団から離れた床に背中があった。
そのまま目を閉じて……しばらくして、遠くでスマホが鳴るのを聞いた。這いずるように起き上がり、画面を見る。
逢坂からだった。
『ついさっき基地に戻ってきたと連絡を受けた。何か問題はなかったか』
声はいつも通りに落ち着いたもので、担当官として鈴を気遣っているのが感じ取れた。そのことに自然と口元を緩め、「ありません」と返答する。
『ならよかったが。どうだ? 基地の外は。玉置の件次第で、外出の規制が厳しくなるかもしれない。今の内に遊んでおくといいぞ』
「そうですね、いい経験になりました。見たことのないものがたくさんあって……楽しかったです」
『なんかえらく大人しい感想だな。露谷と喧嘩でもしたか?』
推察してくる逢坂の発言に、鈴は思わず笑ってしまった。
一番最初に思い浮かべる原因が、それか。ノンの鈴への態度を思えば当然かもしれないが、少しショックである。
寝返りをして、スマホを頭上高くに掲げた。
「意見が合わないってことはありましたが、別にそう深刻では。仲良く、なれると思います。……ただ」
『ただ?』
鈴は言葉を切って、しばし黙る。基地の外で経験し、見聞きしたことを回想する。
それから事件の顛末を語るのに、時間はかからなかった。
「悲しい事件があって、その解決を目指していて。やっと犯人が分かったのに、自分は時災者として公表することができない状況になっていて……書き込み主のことを思うと、なんだか、気分が落ち着かないんです。復讐しようにも、犯人は既に亡くなっている。酷い、話だと」
『要するに、胸糞悪いってことか』
スマホから聞こえてくる声は、奇妙なことにどこか安堵の色があった。まるで、鈴が泣き言を言うのを待っていたかのような、喜びの響き。
彼鈴を慰める気はないのだろう。自分で事件に首を突っ込んだ、関係のない立場の人間の嘆きなど大した意味はない。軽いとすら思える短い返答が、それを証明している。
とはいえどうして嬉しそうな反応なのだろう、ともやもやする鈴の心情には構わず、逢坂の言葉は続けられる。
『俺は時災者ではないから断言できないが、大抵のやつは未来に来てよかった、なんてこと思っていないだろうな。個々の時災者から詳しく話を聞けば、大なり小なり苦しい話は聞こえてくるはずだよ。まぁ、今日のところは休んどけ』
ぷつりと通話は終わり、部屋に静寂が流れる。
鈴は少しの間スマホを眺めていたが、枕元にそっと置く――前に、機器が震えた。その相手の名前を見て、鈴は大きく口を開けた。
まさか、彼女から連絡が来ることがあるとは思っていなかったのだ。
『17時、時災者用寮入口。着いていきたければ、勝手に来ればいい』
鈴が口を利く暇もなく電話は切られた。彼女らしい態度だ。
逢坂には申し訳ないが、休むことなんてできない。
ノンのことを知るという目的で、身分を偽りながら事件のことを聞きまわった。自分には、この事件の終わりを見る義務があるのだと鈴は信じていた。
着替えも何もしていなかったので、こちらの準備は殆ど無い。
靴を履き替え、エレベーターに乗る。壁に貼られた鏡の前、お面のように強張った顔を指でほぐした。
ノンは確かに伝えられた通りの時間、場所に立っていた。壁に背を預け、腕を組んだ姿勢の彼女の恰好は、私服から隊服へと変わっている。
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