タイムトラベラー追跡官とその追っかけ

雀乃手下

プロローグ 勧誘/PM: 7:57

 約束の時間を17分過ぎた頃だった。


 ワイン色の派手なワンピースを着た彼女は、悪びれる様子もなく緩やかにノンの前に座った。

 ノンは先程からにらめっこしていた掛け時計から目を離し、やっと席についた彼女の方を物言いたげに見る。


 だがその非難がましい視線を受け取っても、彼女はニコリと小さく笑うばかりだった。仕方がないのではぁと諦めたように息を吐き、椅子へ深く座る。

 立てかけられたメニュー表は、馴染みのない料理で埋め尽くされていた。ノンは眉を寄せながら目を走らせる。


 と、彼女はちらと周りを――『帰還協力隊』の隊服を着た人々の談笑や、間に入るかどうかを見計らっているウェイトレスを見渡してから、白いテーブルクロスの上に手を置きそっと呟いた。


「基地を脱出しようと思うのよ」


 ノンは返事をしなかった。頷くこともなく、ただほんの少しメニュー表から顔を上げ、辺りを警戒するように見るだけだ。

 その様子に彼女は薄い唇を引き締めて不満げな顔をする。


「ねぇ、何か反応はないの」

「ないね。勝手にすればいい。言う事があるとすれば、私を巻き込まないでほしいことぐらいだ。こんな事で捕まりたくはないよ」

 

 そう言ってノンは彼女から視線を外し、離れていたウェイトレスへ目配せをして呼び出す。

 が、何やら緊張した様子で、彼女は足をもつれさせながらテーブルまで来た。今日が初出勤なのかもしれない。ぎこちない笑みを浮かべる彼女に、ノンは出来るだけ穏やかな声音でジュースを頼んだ。


 表情は変えず、ただ聞き取りやすいようゆっくりと伝えるだけでも効果はあったようだ。

 行きよりも落ち着いた足取りで彼女が去っていくのを見届けてから、ノンは机に手を置いた。両手を組んで肘を置くのは、彼女が考え事をするときの癖だ。


「随分慣れた様子じゃない。もしかして常連? こういうとこ、来る方だとは思っていなかったんだけど」


 からかうようにテーブル越しの彼女は笑った。


「いや。数回上官に誘われたことがあるだけ」

「上官って……あぁ、なるほどね。いいなぁ、うちのは購買のお弁当を渡してくれるだけだったわ。こんな素敵なレストランがあるなんて、あたしも最近知ったのよ。ノンちゃんが教えてくれればよかったのに」

 

 彼女は自分の座る木製の椅子や天井の吊り下げられた照明を恍惚として見渡す。


 基地に併設されたこのレストランは、広い。また賑わっている。

 ノンのような隊員や、彼女のような時災者達にとっては唯一のレストランだからだ。いわゆる『高級店』といえる程格式ばった場所ではないが、安っぽくは見えないので人を誘うには丁度良い。


 そして、あまり堂々と大っぴらに出すことのできない話題でも、周囲の人々が話す声や皿に触れるナイフやフォークの高い音に紛れて挙げることが出来る。

 

 しかしノンは今しがた挙がった話題、すなわち基地からの脱出についてこれ以上論じるつもりはなかった。

 たとえ目の前に座って期待するような目をしている彼女の姿を見ても、その姿勢は変わらない。


 彼女がこの話題について話すためだけに今日、ノンをレストランへ誘ったことを知っていても、だ。

 

 「言っておくけど、勝算はちゃんとあるわ。隊員達の目につかない経路や、その後どうやって生計を立てるかまで予定しているわよ。それでも、あたしの誘いには乗らない?」

 

 あぁ、と固くノンは頷いて見せる。いくら彼女が熱弁しても、保護されている側の彼女が基地内の警備の厳重さと、脱走者を追いかけるしつこさを理解しているとは到底思えない。路地で丸まっているのを発見されるのがオチだ、と。

 残念そうに彼女は俯いた。多分、根っからの善意だったんだろうなと思うと心の置き場がなくなる。

 

 居心地の悪い雰囲気だ。ジュースはまだかなと思っていると、先に懐で携帯が振動するのを感じた。「すまない」と一言断ると、携帯を確認するよう彼女は促してくれた。


 危うく取り落としそうになるほど薄い携帯の画面には、果たして自分の上官の名前がフルネームで表示されていた。ノンは夏でも真っ暗になった窓の外とその画面とを見比べ、唇の片方だけを上げる。


 パワハラだなんだと騒がれたのでさえ今では数十年前のことだ。当時よりも時代は進歩しているだろうに、基地の中といったらそんな良き変化に逆行する勢いなのである。

 仕事の電話をするには明らかにおかしい時間帯にかけられても、最早呆れることもなくなった。この待ち合わせのことを上官に伝えていなかった自分が悪いのだろう。

 

「申し訳ないけど、十中八九呼び出しだ、これは。折角だけど帰らなくちゃいけない。ジュース、来たら飲んでおいてほしい」

「……分かったわ。返答、まだ待ってるから」


 ノンは頼んでしまったジュースの代金だけをテーブルに置き、逃げるようにその場から去った。


 レストランを出ると、容赦ない湿気と暑さが厚着の隊服に襲い掛かる。上着を脱ぎ、それでも大して涼しくはならず、そろそろうんざりして立ち止まった。脳裏にあるのは、一人で待ち人のジュースを啜る彼女の姿だった。

 

 最後にぼそりと呟いた彼女の視線は、もうノンには向いていなかった。

 ではどこに向いているのかと聞かれると、それも分からない。彼女の息を塞ぐ隊員達か、同胞として憐れむ時災者達か、それとも窓の外にある憎むべき基地の建物か。

 

「逃げたところで、どうしようもないだろうに」

 

 ただ、ノンにはそれを確かめる気にもならなかったのだ。

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