第2話 語られなかった過去
通信が続いているという事実だけが、時間の流れを感じさせた。
御崎奏は、ただ静かにヘッドセットに耳を傾けていた。あの会話の続きを、少しだけ、期待していた自分に気づきながら。
「御崎、聞いてるか?」
「……聞こえてます。問題ありません」
「ならよかった。ちょっと、昔の話をしてもいいか?」
「いいですよ。どうせ、他にすることもありませんから」
飛田の声には、どこか迷いが混ざっていた。彼がこんなふうに過去を語ろうとするのは、めったにないことだと奏は知っている。
彼は多くを語らないタイプだ。明るくて、冗談好きで、でも本音の部分は常に自分の内側にしまい込んでいる。
自分にも、似たところがあると思った。
「俺がまだ二十代だった頃、最初の宇宙ステーション勤務があってさ。あの頃は何もかもがうまくいってる気がしてた。シミュレーション通りに動けば、未来は開けるって……」
「理想主義ですね。今の飛田さんからは想像できません」
「だろ? でもな、ひとつだけ取り返しのつかないことがあった」
彼の声が少しだけ揺れた。通信の乱れではない。心の乱れだ。
「地球に、妹がいたんだ。年の離れた、よく笑う子だった。俺が宇宙に出たこと、すごく喜んでくれてたよ。“お兄ちゃん、宇宙に行くんだ”って。俺の写真、学校に持っていって自慢してたらしい」
一呼吸置いて、声が少し沈んだ。
「でも……その妹が、病気で急に倒れてな。帰還申請を出したけど、通らなかった。ちょうど任務中のトラブルも重なって、通信もろくにできなくて……俺が帰った頃には、もう……病室は空だった」
沈黙が降りた。言葉のない時間が、彼の悔いを物語っていた。
「後悔したよ。死ぬほどな……だから今度は、誰かが孤独に耐えてるなら、そばにいてやりたいって思ったんだよ」
「……だから、私に話しかけ続けてるんですか?」
「ああ。そういうことになるな」
奏は少しだけ目を伏せた。
飛田の声が、過去の傷を乗り越えるための手段だったのだと、ようやく理解できた。
だが、同時に彼女自身の胸にもまた、言葉にできない影があった。
浮かんでくるのは、白い宇宙服に身を包んだ仲間の背中。その手を、あのとき、つかめなかった記憶。
「私にも……同じようなことが、ありました」
「……よければ、聞かせてくれ」
「……いつか。たぶん、そのうち」
すぐには言葉にできなかった。自分の中でまだ整理できていない痛み。宇宙に出た今ですら、それは心の中に残り続けている。
「悪い。急がせたつもりはなかったんだ」
「いえ……大丈夫です」
会話が途切れたわずかな静寂の中で、彼女は自分の手を見つめた。
その手は、無重力の中でかすかに震えていた。
飛田は無理に問い詰めようとはしなかった。それが、何よりも救いだった。
「分かった。その時が来たら、ちゃんと聞くよ」
通信の向こう側で、彼が息を吸う音がかすかに聞こえた。
その呼吸が、今の自分と確かにつながっていると感じられる。
「なあ、御崎。さっき、カレーが食べたいって言ってたろ」
「……また、それですか」
「いや、思い出してたんだよ。妹も好きだったな、カレー。あいつ、じゃがいも嫌いだったのに、カレーの中に入ってると平気だった。不思議だよな」
「食材としてじゃがいもを克服したわけですね」
「お前、ほんとに何でも真面目に返すよな」
「悪い癖です」
会話が自然に流れ始めていた。
それはまるで、絶望という名の宇宙の底を、少しずつ泳ぎ出すような感覚だった。
「……私、地球で大切な人がひとり、いました」
「うん」
「でも、私はその人と距離を取ってしまった。宇宙に出たら、自分が変われると思ってたんです。でも……それって、本当は逃げだったのかもしれない」
「逃げじゃないさ。そう思いたい時点で、お前はもう逃げてない」
その言葉が、思いのほか深く胸に染み込んできた。
宇宙の冷たさに包まれていた心が、少しだけ、あたたかくなる。
「飛田さん、変わりましたね。昔はもっと無遠慮で、鈍感だった気がしますけど」
「お前が成長しただけかもしれないぞ?」
「それは……ないですね」
互いに笑う。その笑い声が、まるで宇宙の果てまで響いていくように思えた。
交わされたのはたった数語だったが、その何倍もの想いがこもっていた。
「時間は?」
「残り……六十八時間ちょうど」
「そっか。じゃあ、残り時間を全部使って、お互いの人生を語り合おうか」
「……はい」
その「はい」は、最初に発したどんな応答よりも、深く、静かで、強かった。
沈黙の宇宙に、二人の声だけが柔らかく響いていた。
それは、音のない空間で、唯一確かな“生”の証だった。
奏はふと、窓越しに広がる宇宙を見やった。
星々は変わらぬ瞬きを見せている。だが、そのどれもが、想像を絶する距離の果てに存在している。
ここには風も、空気の振動もない。ただ光だけが、音もなく届いている。
それが、どこか恐ろしくもあり、美しくもあった。
音がないということは、ここに「世界」はないということだ――
そんな思いが、胸をよぎる。宇宙は、生きているという実感を、容赦なく奪っていく。
だが、ヘッドセット越しに聞こえる飛田の声だけが、その虚無を押し返してくれる。
「飛田さん、聞こえてますか?」
「おう。いるよ。どこにも行かない」
「……それ、何度も言ってますよ」
「何度でも言うさ。ここは広すぎるからな」
“広すぎる”――
たしかに、その言葉に尽きる。
この無重力の檻の中で、ただ一つ自分と世界をつなぐものがあるとすれば、それは“音”だった。
機械の作動音。呼吸音。そして、誰かの声。
それがある限り、自分はまだ“内側”にいる。
この果てしない外宇宙の“外側”に取り残された存在じゃないと、そう信じられる。
「……ありがとう」
「ん?」
「ただ、声を聞かせてくれて」
「こちらこそ。聞いてくれて、ありがとう」
わずかな通話遅延の向こうに、あたたかな静けさが生まれる。
それは、この宇宙でいちばん、静かで豊かな時間だった。
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