君の声は、星の彼方で

@nishi18

第1話 取り残された声

宇宙には、音がない。


当たり前のことを、御崎奏は改めて実感していた。シャトルの外に広がるのは、星の瞬きすら感じさせない冷たい沈黙。船体の故障警告灯だけが、赤く瞬くたびに、彼女の意識を現実に引き戻していた。


「生命維持システム、稼働残り――七二時間を切りました」


合成音声が淡々と告げる。その声すらも、ただの数字の羅列にしか聞こえなかった。


何が悪かったのかは、もう分かっている。着陸後の起動シークエンスで反応炉が過熱、機体が半ば強制的にシャットダウンされた。制御を取り戻す間もなく、切り離された推進ユニットは制御不能の軌道に乗り、気づけばこの状況だ。母艦とは連絡が取れた。だが、帰る手段はない。


「……おい、御崎。聞こえるか?」


ヘッドセットから流れてきた声は、彼女を現実に引き戻すには十分すぎるほど温かかった。


「……飛田さん」


「全然応答がないから、死んだかと思ったぞ」


「死んでたら返事できません」


「そりゃそうだ。ってことは、まだ生きてるな。よしよし」


言葉は軽いが、その裏にある安堵を奏は感じ取っていた。

飛田 真。有人探査母艦オリジンの副船長。

理知的で頼れる――のだが、こういうときには決まって軽口を叩く癖がある。


「状況は分かってる。シャトルの自力復帰は不可能。こっちも回収手段は……ほぼゼロだ」


「知ってます。データ送ってますから」


「だよな……悪い。どれだけ頭をひねっても、もう無理だ。今の俺じゃ、できることが限られてる」


奏はわかっている。これは“諦め”の言葉ではない。事実を、飾らずに伝えるための声だ。

むしろ、彼の声が冷静でいてくれることが、今の自分にとって唯一の救いだった。


「生存時間はあと七一時間三十七分です」


「時計を止める術はないか」


「止めたら死にますけど」


「そうだったな。うん。やっぱり、なんとかして笑わせてやろうと思ったけど、御崎には通用しないな」


「そういうところは、変わってませんね」


小さく、笑い声がもれた。自分の口からそんな音が出たことに、奏自身が驚いた。


真は一瞬黙ったが、すぐに言葉を継いだ。


「なあ、せっかくだから話をしよう」


「話?」


「他にすることあるか? お互い寝ても仕方ないし」


「会話のログを録ってどうするんです。無駄ですよ」


「無駄でもいいさ。お前、昔言ってたろ。“言葉を残すのが人間の証明だ”って」


「……そんなこと、言いましたっけ」


「俺は覚えてる」


その一言に、心が少しだけ震えた。


彼は――覚えていた。

彼女が宇宙を目指した理由すら、今では誰にも話していないのに。


「じゃあ、何を話すんですか?」


「なんでもいいさ。たとえば……地球に戻ったら、何がしたい?」


「戻れない人間に、そういうことを聞きますか」


「だからこそだよ。もし戻れるとしたら、って仮定して考えよう。想像力は宇宙より広いんだろ?」


一瞬の沈黙。


「……カレーが食べたいです。レトルトじゃないやつ」


「ははっ、意外と庶民的だな。よし、俺が帰ったら、地球で一番うまいカレー屋に行ってお前の分も食ってやるよ」


「それは、食べてないのと同じじゃ……」


「いいんだ、カレーを食べながら君のことを思い出す。それで十分だろ?」


冗談まじりの口調。でも、少しだけ胸に刺さる。

冗談を使わないと、彼自身も崩れてしまいそうなのだと、奏は分かっていた。


「飛田さん」


「ん?」


「私、たぶん、怖くないです」


「……どうして?」


「前にも、もっと怖い思いをしたから。今回は……少なくとも、声があるから」


沈黙が落ちた。

そして、しばらくして、真が静かに口を開いた。


「そうか……俺は、怖いぞ」


「飛田さんが?」


「ああ。お前がいなくなるのが、怖い」


その言葉は、宇宙の闇よりも重かった。


奏は何も答えられなかった。

声が詰まったのではない。ただ、返すべき言葉が見つからなかった。


「でもな、それでも、俺は最後まで付き合う。どんなに小さな声でも、どんなに通信がノイズだらけになっても、お前の声を聞き続ける。それだけは約束するよ、奏」


それは、かつて誰にも向けられたことのない、まっすぐな言葉だった。


奏は目を閉じる。


音のない宇宙に、たしかに“声”があった。

自分の命が、音とともにまだここにあると、確かに感じることができた。


数分後、飛田の声が再び聞こえた。


「そういえばさ。御崎、お前ってさ――“宇宙に出たら人生が変わる”って、言ってたよな」


「ええ。誰にでも話してましたね。面倒なくらいに」


「でも、変わったのか? お前の人生は」


しばらく黙ったまま、奏は目の前の宇宙を見つめた。


「……分かりません。まだ途中なんでしょう。変わったのかどうか、最期までいかないと、判断できない」


「らしいな。らしいよ、お前」


「何が“らしい”んですか」


「そうやって、冷静ぶってるけど……実はちゃんと、最後まで考えてる。いつも逃げないよな、お前は」


その言葉に、ほんの少しだけ、心の奥が揺れる。

誰かにそう言われたのは、いつ以来だろう。


奏は口を開きかけ、そして閉じた。

言葉にするには、まだ少しだけ、時間が必要だった。

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