第二話:まだ許してない

 空は、クッキーの包みを握りしめながら、隣の家のチャイムをそっと押した。ピンポンという音が静かに響く。夏の朝の光が玄関のタイルに斜めに差し込んでいた。


 数秒後、ドアが開き、まひるの母が顔を出す。


 「あら、空ちゃん?」


 柔らかい笑顔。けれど、その目はどこか、すべてを察しているような光を帯びていた。


 「おばさん、あのね……」


 空はうつむきながら、ぎゅっと包みを握った。


 「わたし……まひる怒らせちゃって。……ごめんって、ちゃんと伝えたくて……」


 「そう。……えらいわね」


 まひるの母は少しだけ目を細め、扉の奥へ視線をやった。


 「真昼の部屋、行ってもいいかな……?」


 ほんの少しだけ空気が張り詰めたが、まひるの母はすぐに微笑み、うなずいた。


 「ええ。あの子、扉は閉めてるけど……空ちゃんなら、大丈夫よ。上がって?」


 促されるまま、空は靴を脱いで家の中に入る。玄関の匂いは、昔から変わらない。お菓子と柔軟剤が混じった、まひるの家の匂い。


 二階の廊下。まひるの部屋の前に立つ。ドアは閉まっている。中の気配はない。


 「……まひる。あの、さっきはごめん……ほんとに、そういうつもりじゃなかったの。すっごく可愛いって思って、それで、なんか、言葉が変になって……」


 返事はなかった。


 「クッキー、持ってきた。昨日のお母さんのやつ……まひるも好きだったから……」


 沈黙。


 空は扉の前で、小さく息を吐いたまま立ち尽くす。


 時間がどれくらい経ったのか、わからない。光が少しだけ傾いて、廊下の壁の影が伸びていた。


 何度か扉を見ては口を開きかけ、閉じて、を繰り返す。そして、ほんの少し首を下げて、最後の言葉を紡いだ。


 「……ごめん、まひる。ほんとに、ごめんね」


 立ち去ろうと、一歩足を引いたそのとき。


 ──カチャ。


 扉の内側で、鍵の回る小さな音がした。


 「まだ許してない」


 かすれた声が、木の板越しに聞こえる。


 「……でも、直接、謝って」


 ゆっくりと、ドアノブが回り始めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る