『となりのまひる』

鈑金屋

第一話:えっちって言っちゃった

 土曜の朝、空の家のチャイムが鳴った。


 「まひるちゃん来たわよー。そら、早くしなさい」


 母の声が玄関から聞こえてくる。隣の家に住むまひるとは、物心つく前からの幼馴染だ。今日はいっしょに街まで買い物に行く約束をしていた。


 空は洗面所で水を飲み、鏡も見ずに玄関へと出る。Tシャツにハーフパンツ、いつもの格好だった。


 扉の向こうには、まひるが立っていた。


 ──その瞬間、空は目を奪われた。


 真っ白なノースリーブのブラウス。肩がすっと出ていて、細くて、儚げな腕が朝の光に照らされていた。淡い桃色のスカートの裾がふわりと揺れて、足元のサンダルからのぞくつま先さえ、妙に気になってしまう。


 軽く巻いた髪に、ほんのりと色づいた頬。表情は少し照れくさそうで、それがまた、可愛い。


 (なにこれ……ちょっと、まって、かわいすぎ……)


 目の前のまひるが、いつもの“まひる”だと認識するのに、少し時間がかかった。


 心臓の音が一瞬、跳ねる。


 けど、どうしたらいいかわからない。


 褒めたい。すごくかわいいって言いたい。でも、なにか言わなきゃって焦って、口が勝手に動いた。


 「……エッチ」


 それは、褒め言葉とはまるで逆の意味で──


 まひるの表情が凍った。


 目がぱちぱちと瞬きをして、頬が見る見るうちに赤く染まる。


 「バカ!」


 怒鳴るような声を残して、まひるはくるりと背を向けた。音も立てずに走り出し、自分の家の玄関に駆け込んでいった。


 「え、ちょ……まひる?」


 空はその場に立ち尽くし、ただ呆然とその背中を見送るしかなかった。


 ──すぐ背後から、ドスッという音がした。


 「バカはあんたでしょ!」


 怒声とともに、空の頭にしっかりと母の拳が落ちた。手加減なし。脳が揺れるほどの正真正銘のゲンコツだ。


 「いきなり“エッチ”って何考えてんのよ! あんな可愛くして来てくれた子に、どこ見てそんなこと言ったの!?」


 「ち、違うの! その、可愛いって思って、それで、変な気持ちになっちゃって……」


 「変な気持ちになるのは勝手だけど、言葉にして爆発させるんじゃないの! はぁ……ほんとにもう……」


 呆れと怒りの混じったため息をついて、母は台所の棚から小さなラッピング袋を取り出した。中には、昨夜一緒に作ったクッキーが数枚。


 「はい、これ持って」


 「え、今から?」


 「今から。すぐに。まひるちゃん泣いてるでしょ、たぶん。あんたが言った言葉は、ナイフみたいに傷つけたのよ」


 ラッピング袋を空の手に押し込むと、玄関の扉を開け放って、追い出すように背中を押した。


 「言葉はナイフにも、ハチミツにもなるのよ。あんたのは今、切れ味抜群のナイフだったわ」


 母の言葉は、妙に沁みた。


 手にクッキー、頭にゲンコツの痛み。空はうなだれながら、隣の家──まひるの家の玄関に向かった。

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