第2話 隣領への道
村を後にしてから、三日が過ぎた。
夜明け前の荒野は、肌を刺すように冷たい。
俺は岩陰で焚火の最後の熾火にあたりながら、村の長老に握らされた干し肉を黙って口に運んだ。
硬く、塩辛いだけの肉の塊。
だが今はこれが命を繋ぐ全てだった。
眠りは浅く、目を閉じれば今も鮮明にあの光景が蘇る。
黒煙を上げて崩れ落ちるハンス爺さんの家。
恐怖に歪む村人たちの顔。
そして、全てを嘲笑うかのように去っていったガラミスと騎士団の背中。
涙はもう出なかった。
悲しみは、心の奥底で復讐という冷たい杭に変わり、俺をただ前へと突き動かしている。
夜が明けると、俺は火を完全に消し、再び南へと歩き始めた。
街道は使わない。
騎士団がいる詰所があるかもしれないし、何より今は誰とも会いたくなかった。
農民として培った知識だけが頼りだ。
地形を読み、動物の踏み跡を辿って水場を見つけ、食べられる野草を僅かばかり摘む。
そして、旅立ちから五日目の昼過ぎ。
岩がちな丘陵地帯を抜ける細い道で、俺は、壊れた荷車のそばに座り込む一人の老人を見つけた。
車輪が軸から外れ、荷台が大きく傾いている。
老人は途方に暮れた様子で、天を仰いでため息をついていた。
「……ああ、女神様……。このままでは、街で待つ孫の顔も見れずに……」
老人の、誰に言うでもないか細い呟きが、俺の耳に届く。
一瞬、そのまま通り過ぎようかとも考えたが、ふと気がつくと俺は老人の荷車の前に立っていた。
「……っ!? な、なんだあんたは!」
老人は、突然現れた俺に驚き、身を固くする。
俺は何も言わず、傾いた荷台の下に潜り込み、外れた車輪の状態を確かめた。
軸受けが摩耗し、車輪を固定する楔が折れている。これでは走れない。
俺は荷車から降りると、近くの灌木から手頃な硬さの枝を折り、手斧を使って削り始めた。
老人は、俺の意図が分からず、ただ怯えたような、それでいてどこか訝しむような目で俺の作業を見つめている。
しばらくして、俺は応急処置の楔を二本作ると、再び荷台の下に潜った。
農作業で鍛えた背筋と腕力で、重い荷台をぐいと持ち上げ、その隙に車輪を軸にはめ込み、新しい楔を力任せに打ち込む。
ギシッ、と木が軋む音がして、車輪はなんとか元の位置に収まった。
「……これで行けるはずだ。だが、街まではゆっくり走れ。急ぐと途中でまた外れるかもしれん」
俺は土埃を手で払いながら立ち上がり、ぶっきらぼうに告げた。
「お、おお、なんとありがたい……! あんた、一体……」
老人は信じられないといった様子で、修理された荷車と俺の顔を交互に見比べた。
「気にするな。さっさと孫に会いに行くといい」
俺は背を向け、再び歩き出そうとした。
だが、老人が慌てて俺を引き留める。
「ま、待ってくれ! このまま行かせるわけにはいかん! せめて……せめて、これだけでも受け取ってくれんか!」
老人は、荷台から銅貨数枚と黒パンの塊を取り出すと、俺に差し出した。
「……こんなものしかなくてすまんが……」
俺は一瞬躊躇したが、腹の虫がぐぅ、と情けない音を立てた。
無言でそれらを受け取ると、黒パンを一口啜る。
塩気の効いた、素朴だが深い味わい。
空腹だった俺には最高の食事だった。
「……あんた、どこかへ向かっている途中かね? もし仕事を探しているなら、この先の交易都市『ケイル』へ行くといい。この辺りじゃ一番大きな街じゃ。真面目に働きさえすれば、そこそこ暮らしていけるじゃろう」
俺は老人に礼を言うと、教えてもらったケイルへの道を進み始める。
そしてその二日後に、俺は交易都市ケイルの城門をくぐっていた。
老人の言った通り、そこは活気に満ちた都市だった。
石畳の道を多くの人々や馬車が行き交い、露店からは威勢の良い声が響き渡る。
パンの焼ける香ばしい匂い、家畜の匂い、そして人々の熱気。
俺が去った村とは、何もかもが違っていた。
だがその活気は、今の俺にはひどく疎ましいものに感じられる。
なぜ俺の故郷だけが、あんなに搾取され続けなければならなかったのか。
この街の豊かさは、俺の村のような場所からの犠牲の上に成り立っているのではないか。
黒い感情が胸の内で渦巻く。
街の酒場で、エール一杯を頼りに情報収集をすると、この辺りの領主は比較的穏健で、税も法外なものではないことが分かった。
だからといって、俺はこの街で暮らす気にはなれなかった。
領主、騎士、役人……ここにいる連中も結局は同じに違いない。
一度牙を剥けば、民から容赦なく全てを搾り取る。
もう二度と、誰かの支配下で、誰かの都合に人生を左右されるのはごめんだ。
街角で、ケイルの衛兵が市民と談笑している姿が目に入った。
それは本当に、ただ親し気に話していただけのことなのだろう。
だが今の俺には、その鎧の紋章がガラミスのそれと重なって見えてしまい、腹の底から黒い怒りが込み上げてくる。
この活気も、人々の笑顔も、全てが偽善に思えた。
俺の居場所は、ここにはない。
誰にも頼らず、誰にも利用されず、己の力だけで生き抜く。
復讐を果たすまでは、誰にも心を許すわけにはいかない。
そう考えた俺は、この都市で暮らすという選択肢を捨てた。
必要なのは、人目につかず、力を蓄えることができる場所。
俺は街の喧騒を背に、郊外に広がる森へと向かう。
人が寄り付かず、それでいて水の確保ができる場所。
俺が求めるのは、ただそれだけだった。
半日ほど森の中を歩き回り、ようやく理想的な場所を見つけた。
清らかな小川が流れ、周囲を木々に囲まれた、人目につきにくい小さな窪地だ。
「……ここだ」
俺は荷物を下ろすと、手斧を取り出した。
まずは、雨風をしのげる寝床がいる。
獣や魔物から身を守る、ささやかな砦が。
俺は、近くに生えていた手頃な太さの木に向き直る。
復讐。
村人だった俺が騎士団で大暴れでもすれば、領主も少しは民草の困窮について、真剣に考えるようになるかもしれない。
その目的を果たすまで、死ぬわけにはいかない。
だからまずは、ここで生き延びて力をつける。
俺は大きく息を吸い込み、手斧を振り上げた。
乾いた打撃音が、静かな森に響き渡る。
それは、俺の新たな始まりを告げる、産声のようにも聞こえた。
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