第17話 踏切 1
医学部3年の夏になった。前期の試験が終わって一週間がたった。
採点も終わり、結果を返される。
ほとんどの科目で純は良い成績だった。
祖父が入院したと家に連絡がはいった。
純はセミナーの帰りにお見舞いにいくことにする。
お見舞いの品はなにも持っていかない。
なにも買わないし、手ぶらでいくと決めていた。
咬みつき亀がきいたら、きっと
「あんたっていう子は、やっぱり気がきかん」
とあきれてののしられそうである。
下手(へた)な物を持っていくと誰が見舞いにきたのかと疑われる。
祖父がいらない嘘をつかなければいけない。困ると気の毒だ。
そのへんは妙に勘(かん)が鋭い咬みつき亀にばれないともかぎらない。
かえって騒動のもとになる。純はこなかったことにした方がいいと思った。
気配を消し、姿も影も残さない。
証拠物件を残さず、隠密裏にことを運んだ方が良いときもある。
祖父だけに自分の顔をみせる、それがベストの選択だった。
見舞い品のかわりに期末の試験の結果を報告することに決めた。
祖父の病室は4人の大部屋である。部屋は静かだった。
入口のすぐ傍のベッドはカーテンが引き開けられ、
寝具が新しい入院患者用に整えられていた。
他のベッドのしきりのカーテンはきっちり閉まっている。
窓際にすり足で近づき、すき間からのぞきこんだ。
祖父のベッドは南に面した窓際だった。
祖父は純が顔をのぞかせると、顔をくしゃくしゃにして涙ぐむ。
嬉しそうに喜んでいる。新しく家を建て、大騒ぎの末に一家が実家を出以来、、
ほとんど絶縁状態だった。ずっと会っていない。
彼がお見舞いにいくことが一番のお見舞いだった。
「おお純か、きてくれたんか」
起き上がった祖父の耳もとで
「叔母ちゃんに叱られるといかんから、なんにも、持ってこんかったんよ」
ささやいた。
「うん、うん、ええよ、ようわかっとる」
涙をこぼしながらうなずく。
昔から祖父母は純のことをかわいがってくれていた。
食卓がせまいということもあって、幼い頃食事のときはいつも祖父の膝の上で食べさせてもらっていた。
純は体が弱く、食も細い。だから心配した祖父母は好きな物だけをまず純にくれた。このことも気にいらなかった咬みつき亀は
「純ばっかり甘やかして」
はぶてる。
いつも怒って、純に意地悪ばかりした。
だから夕方遅く、両親の仕事が終るまで、保育所にあずけられっぱなしだった。
二人は年が近い。だからねたんで焼きもちを焼く。
露骨にライバル心をむきだしにした。
「私は純のようにお父ちゃんにいっぺんも大事にされたことも、かわいがってもらったこともない」
というのが佳奈の口ぐせだった。
ぐちばかりいいつのって、すねる。純を憎んでいた。
それを誰一人とりあおうとしない。だからよけいに意地悪がエスカレートしていった。
『お爺ちゃんが差別なんかするわけがないのに』
ひがみきってゆがんだ根性のあの咬みつき亀には通用しない。
病室で祖父に前期テストの成績をみせた。
「純はお父さんに似て、本当に頭の良い子じゃ」
嬉しそうに口元をほころばせた。
15分ほどいて、病室をあとにする。
もしまた咬みつき亀と鉢あわせでもしたら、大ごとになる。
『くわばら、くわばら。彼女とは混ざるな、咬みつき亀、危険につき、手を出してはいけない。咬みつかれてけがをする』
もし遠くでみかけたとしても、必ず遠回りをした。
『逃げろや、逃げろ、逃げるが勝ち』
想像しただけでゾッとする。身震いがした。
「それじゃあ、またくるね」
といって純は病室を出た。時間外だったので正面入口はしまっていた。
通用口から出る。自転車に乗って病院を出た。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。