第9話

 どれくらいの時間そうしていたのだろうか。


 硬く冷たいコンクリートの感触が僕の額と膝に現実の重みとして突き刺さっていた。

 渡り廊下の天井にある味気ない蛍光灯の白い光が閉じた瞼の裏側をぼんやりと赤く染めていた。耳の奥ではキーンという金属的で終わりのないような音が鳴り続けている。

 世界から色が音が意味が全てが剥ぎ取られてしまった完全な虚無。僕はその何もない空間の中心にいた。


 希望という名の最も残酷な幻影を見せつけられた僕の精神は完全にその活動を停止していた。思考しようとしてもその端から言葉が意味が霧のように消えていく。感情を感じようとしてもその在り処がもう分からない。ただ生きているという事実だけがまるで質の悪い冗談のようにこの肉体にこびりついている。


 やがて遠くでまたチャイムが鳴った。授業が終わったのかあるいは始まったのか。そんなことさえもはやどうでもよかった。

 人の声、足音、ざわめき。それらが分厚い水の底から聞こえてくるように不明瞭に僕の意識の表面を通り過ぎていく。


 僕がどうやってその場から立ち上がりどうやって教室へ戻ったのかその記憶はひどく曖昧だ。

 まるで僕という容れ物だけがこれまでの習慣通りに決められた動作を自動的にこなしていく。


 午後の授業の間僕はただ椅子に座っていた。そこにいる僕の意識はただ意味を失っていた。

 そんな様子の僕に対して、周囲のクラスメイトたちは誰も話しかけてはこなかった。

 彼らは僕という存在をまるで教室の隅に置かれた壊れた備品か何かのように意識の外へと追いやっている。それが僕にとっては幸いなことだった。

 今の僕には他者と言葉を交わすだけの精神的な余力はひとかけらも残されていなかった。


 それでも僕の意識の端には時折ちらつくものがあった。

 ふと顔を上げた時、窓側の席と廊下側の席の間にある通路の奥。そこにあの冷たい気配がよどんでいるのを感じた。教室の前方、黒板の脇に設置されたロッカーの隙間からも、あの粘つくような視線の気配が消えない。いくつもの存在が僕という異物を取り囲み、観察している。


 しかし、それらは以前のように明確な形を成してはいなかった。ただの気配、ただの違和感としても受け取れるくらいの。もしかしたら、あの白皙の少女と出会ったことで何かが変わったのかもしれない。あの聖なる存在との邂逅が、この黒い塊たちの活動を抑制しているのだろうか。理由はともかく、そうだとすればそれは好都合だ。

 確かに全ての存在についての確証は何一つとして信頼はできない、けれども少なくとも今の状況は悪化していない、それだけは間違いなかった。


 いや、もしかしたら、もはや僕の恐怖という感情を生成するための心の機能が死んでしまって、僕の全ての機能が停止しているだけなのかもしれない。

 確かに今の僕は、何もかもどうでもよく感じてしまっている。


 そして、一日の終わりを告げる最後のチャイムが鳴った。

 生徒たちが一斉に解放されたような声を上げカバンに教科書を詰め込み始める。その日常的な喧騒の中で僕だけが時が止まったかのように身動き一つできなかった。


 帰る?

 どこへ?

 あのカーテンを閉め切った安全なはずだった僕の部屋へ?

 あの学生カバンの中に生首の幻影が現れたあの場所へ?


 もはや、どこにも僕の安息の地などありはしない。

 僕は空っぽの頭でぼんやりと考えていた。これからどうすればいいのか。この終わりのない地獄の中で明日も明後日もただこうして息をしていればいいのだろうか。

 その時だった。


 僕の虚無に閉ざされた意識のその本当に片隅で。

 一つの言葉が不意に蘇った。

 それはあの白皙の少女が僕に残していった、呪いのような助言。


『学校の図書室へ行ってみてください。郷土史のコーナーがあるはずです』


 図書室。

 その言葉が僕の空っぽになった思考回路に唯一灯った小さな小さな灯火だった。


 馬鹿げている。

 あれは幻であり、僕の狂気が作り出した救世主で、今もいる異形の気配と同種のもの。だとすれば、彼女の言葉に何の意味があるのだろうか?


 それに従ったところで何かが変わるはずもない。

 分かっている。頭では理解している。


 しかし。

 今の僕にはもうそれしか縋るものがなかったのだ。


 自分の意思はもうない。自分の思考は信用できない。ならばいっそのことあの幻の命令に従ってみるのもいいのかもしれない。たとえそれが僕をさらなる破滅へと導く道だったとしても。

 もうこれ以上落ちる場所などありはしないのだから。

 僕はまるでゼンマイが巻かれたブリキの人形のようにぎこちなく席を立った。カバンを肩にかける。その重みがずしりと僕の空虚な体にのしかかった。

 僕は誰に視線を合わせるでもなく教室を出た。


 放課後の図書室はしんと静まり返っていた。

 窓から差し込む西日が床に長い長方形を描き出し空気中を舞う無数の小さな埃をきらきらと照らし出していた。

 そして、その高い天井まで届く巨大な本棚がいくつも整然と並んでいる。その光景はまるで墓標のようだった。


 図書室には誰もいなかった。迷わず、僕はその静寂の迷宮へと足を踏み入れた。


 郷土史コーナー。

 それは図書室の最も奥まった薄暗い一角にあった。ほとんど誰も訪れることのないのだろう。棚に並んだ本はどれも背表紙が日に焼け埃をうっすらかぶっている。僕はその棚の前に立ち無感動にタイトルを目で追った。

『市制80年 通史編』『図説・この町の百年』『失われた風景を求めて』


 どれも僕の興味を引くものではなかった。

 僕はその中から一冊最も分厚く古びた豪華な装丁の市史を引き抜いた。ずしりと重い。その重さが僕の今の心境とどこか似ているような気がした。

 近くの閲覧用の長机にそれを持っていく。椅子を引き腰を下ろした。


 僕は何をしているのだろう。

 ふとそんな冷静な思考が頭をよぎった。幻に言われるがままこんな場所で古い本をめくっている。滑稽だ。あまりにも滑稽すぎる。


 しかし僕の手は僕の意思とは関係なくその重い表紙を開いていた。

 ざらついた黄ばんだ紙の感触。インクの古びた匂いがする。その中で、ページを一枚一枚めくっていく。

 この地の古代から鎌倉、江戸へと歴史が記されている。この土地の僕の全く知らない歴史が淡々とした文字の羅列で綴られていた。


 何の意味もない。

 こんなものに僕を救う力があるはずもない。


 しかし、僕はただ無心にページをめくり続けた。それは一種の儀式だったのかもしれない。僕の砕け散ってしまった精神を落ち着かせるための単調な反復作業。

 やがて僕は明治、大正、昭和と時代を下っていった。学校の設立に関する記述が出てくる。この辺りの土地が造成され校舎が建てられた経緯。何枚かの古びた白黒写真。まだ何もない野原にぽつんと建つ、僕が知らない以前の木造校舎。

 そして、今、僕がいるこの校舎へと至るのだ。


 無意味な反芻作業で幾分、心が落ち着いていたのかもしれない。なにか僕の中で一つの仮説を形作り始めていた。

 僕を苛むこの怪異。

 その正体はやはりあの自殺した女子生徒の霊なのだろうか、と。

 全ての現象は彼女の死の後から始まっている。首を吊った人型。それは彼女の死の瞬間の再現。僕のノートに書かれた言葉。僕が口にしたという言葉。それは彼女の最期の叫び。


 資料準備室。あの少女が命を絶った場所。そして僕が最初にあの黒い人型を見た場所。

 僕に取り憑いているのは彼女の無念の魂なのだ。

 なぜ僕なのか。その理由は分からない。


 僕はもう一度本に視線を戻した。

 その時だった。


 ぐにゃりと。

 僕の視界がねじれた。

 本のページに印刷された黒い文字がまるで生き物のようにのたうち、意味をなさない黒い染みに変わっていく。


 なんだ……?

 激しいめまい。頭の内側から誰かに万力で締め上げられるような強烈な痛み。図書室の静寂が遠のき代わりに耳鳴りがその音量を上げていく。


 僕は机に突っ伏した。

 意識が急速に遠のいていく。

 まるで深い深い水の底へ引きずり込まれていくような感覚。


 抗うことはできなかった。

 僕の意識は僕の体から完全に切り離され暗く冷たい何もない空間へと放り出された。


 そして唐突に映像が始まった。



 それは僕の知らない教室の光景だった。しかし、なぜか僕にはその情景がまるで自分自身の記憶であるかのように鮮明に感じられた。


 昼休み。窓から明るい光が差し込んでいる。しかしその教室の空気はどこかよどんでいた。

 僕は─いや、僕ではない。僕の意識は別の誰かの中に押し込まれていた。視点がいつもより低い。机の上に置かれた可愛らしいキャラクターの弁当箱を見下ろしている。小柄な少女の視点だ。


 僕は、その少女として、弁当箱の蓋を開けた。母親が作ってくれたであろう彩り豊かなおかずが並んでいる。僕は─少女は一人で黙々とその弁当を食べている。

 周囲ではクラスメイトたちがいくつかのグループに分かれて楽しげに笑い合っている。しかし誰一人としてこの少女の机に近づこうとはしない。まるで彼女の周りだけ見えない壁があるかのようだ。彼らは意図的に彼女を避けている。その冷たい無関心が肌を突き刺すように痛い。僕はその痛みを、少女自身の感覚として感じていた。


 突然、視界が切り替わった。

 今度はスマートフォンの画面。僕の─少女の指が小刻みに動きながらメッセージアプリのアイコンをタップする。開かれたグループチャットの画面。そこには彼女の悪意に満ちた噂話が共有されていた。盗撮された彼女の写真。その顔には落書きがされ誹謗中傷の言葉が添えられている。


『マジウケる』

『生きてる価値なくね?』

『学校来んなよ』


 その文字の一つ一つが鋭い刃物となって心を切り刻んでいく。僕はその痛みを、彼女の心の痛みとして直接体験していた。


 また場面が変わる。

 僕は少女として、自分の学生カバンを開ける。しかしその中には教科書やノートはない。代わりにお菓子の空き袋や使い終わったティッシュ、得体の知れないゴミが詰め込まれている。彼女の大切な私物はどこにも見当たらない。

 廊下を歩いている。すれ違う生徒たちのひそひそ話が聞こえてくる。


『うわ来た』

『なんか臭くない?』

『汚いから近寄んないでよ』


 その言葉は呪いのように彼女の体にまとわりつく。僕もまた、その侮蔑の視線を一身に受けていた。


 次の瞬間。

 僕は女子トイレの冷たく薄暗い個室の中にいた。ドアに背中をもたせかけ膝を抱えている。僕の─少女の肩が小刻みに動いている。嗚咽を殺す音が自分の喉から聞こえてくる。

 ドアの向こう側から嘲笑うような声が聞こえた。


『まだいんのー?』

『ウケる引きこもってやがる』

『もういっそ死んじゃえばいいのに』


 その声は無邪気でそして残酷だった。僕はその屈辱を、少女の屈辱として感じていた。


 場面が再び変わった。

 今度は薄暗い部屋の中。積み重なった段ボール箱、古い机や椅子が雑然と置かれた物置のような空間。資料準備室だった。

 僕は─少女は部屋の中央に一人で立っている。


 僕は少女として、力なく部屋の隅から古い椅子を引きずってきた。天井を見上げる。太い梁が走っている。

 僕の手で、どこからか持ってきた太いロープの一端を梁に固く結びつけた。そしてもう一方の端で輪を作る。その手つきに迷いはなかった。僕はまるで自分自身の手であるかのように、その一連の動作を体験していた。

 椅子の上に立つ。ロープを首にかける。

 僕は─少女は、ただ虚空を見つめていた。その瞳にはもう何の光もない。憎しみも悲しみも怒りも通り越した完全な虚無。

 最後に僕の唇がわずかに動いた。

 声にはならなかった。

 しかしその想いは僕自身の想いとして心の中に響いた。


『助けてくれる人なんていない』


 その言葉と共に。

 僕は静かに足元の椅子を蹴った。



 瞬間僕の意識は激しい衝撃と共に現実へと引き戻された。


「はっ……! かはっ……!」


 僕は図書室の机に突っ伏したまま激しく咳き込んだ。喉がひきつり呼吸がうまくできない。まるで自分自身が首を吊られていたかのようだ。


 全身からびっしょりと冷たい汗が噴き出している。体が自分の意思とは関係なくがたがたと小刻みに動き止めることができない。


 なんだ今のは。

 あれは何だ。


 映画?

 白昼夢?


 違う。


 あれは紛れもなくあの自殺した女子生徒が生前に体験した出来事そのものだ。

 彼女の記憶。

 彼女の絶望。

 その全てを僕は追体験させられたのだ。

 彼女の視点で。彼女の心で。


 僕の内側に彼女のあのどうしようもない孤独と苦痛が生々しい感触として焼き付いて離れない。


 しばらくして、ようやく僕は顔を上げた。


 図書室は静まり返っていた。窓の外は完全に暗くなっており、室内の照明だけが煌煌と図書室という空間を照らしていた。僕以外には誰もいない図書室。その静寂が、先ほどまで体験していた少女の絶望的な記憶と異様な対比を成していた。


 どれくらいの時間、僕はあそこにいたのだろう。


 なぜ僕が。

 なぜ僕がこんな体験をしなければならない。


 僕は彼女をいじめていたわけではない。親しい友人だったわけでもない。ただ同じ学年にいるというそれだけの希薄な関係だったはずだ。


 それなのになぜ。

 明確な理由のない恐怖。因果関係が見えないという事実。それが僕をより一層の混乱とそして底なしの絶望へと突き落としていく。


 僕はなんとか立ち上がった。机の上の市史をそのままにして、ふらつく足取りで書架の間を進んで、出口へと向かう。頭がまだぼんやりとしていて、どこか意識が遠くにあるように感じた。

 図書室の扉を押し開ける。廊下に出ると、校舎全体が闇に包まれており、蛍光灯の明かりだけが闇の中で光の孤島を生み出していることを認識できた。

 外はすでに完全な夜の闇に覆われている。それは、僕の心のように深く救いのない闇だった。

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