第8話

 昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴り響いた後も、僕は中庭の奥から動けなかった。

 彼女が消えていった中庭の奥を見つめたまま、僕はしばらくその場に立ち尽くしていたからだ。


 動けなかった理由は、悲しみや絶望からではなかった。むしろ、その逆だった。なにしろ、僕の心は、久しぶりに訪れた穏やかな凪の中にあったのだから。いや、それ以上のものだったのかもしれない。凪いだ水面のさらに奥底から、静かだが力強いエネルギーが湧き上がってくるのを感じていた。それは『希望』という名の、あまりにも温かく、そして甘美な泉だった。あの忌まわしい黒い塊に蝕まれ、枯渇しきっていたはずの僕の内側に、彼女がその清らかな手で新たな水源を掘り当ててくれたのだ。


 指先にまで力が漲ってくるのが分かった。さっきまで廊下で自分の死の幻影を見て、壁にへたり込んでいたのが嘘のようで、もはや、足元がふらつくこともない。

 むしろ大地にしっかりと根を張ったかのように安定している。ゆっくりと深呼吸をすると、中庭の少し湿り気を帯びた土の匂いと、青々とした草いきれが僕の肺を満たした。

 それは、僕がこの数週間忘れてしまっていた、確かな『生』の匂いだった。


 大丈夫だ。僕はもう一人じゃない。彼女がいる。


 僕は、ベンチに腰掛けたまま、彼女の正体について、ぼんやりと考えていた。

 あの人間離れした美しさ。そのどこか浮世離れした雰囲気。音もなく現れ、消えていく様。

 おそらく、彼女もまた、僕を苛むあの黒い塊と同じように、この世のものではないのだろう。

 その考えは、しかし、僕を不安にはさせなかった。むしろ逆だった。彼女が人ならざる『善なる存在』であるという確信こそが、僕が抱いた希望が本物であることの何よりの証左に思えた。


 そうでなければ、説明がつかない。


 僕は思い返す。この数日間、僕が見てきた地獄の光景を。

 資料準備室の暗闇に浮かんだ、首を吊った人型の影。

 帰り道の中学校のフェンスに、夕日を背にしてぶら下がっていた黒いシルエット。

 僕の学生カバンの中に潜み、冷たく湿った感触を僕の指先に残した、あの生首。

 それらはすべて、圧倒的な悪意と絶望の発露だった。意味も、理由も、救いもない、ただ存在を蝕むだけの純粋な『穢れ』のようなもの。あんなものに、ただの人間が太刀打ちできるはずがない。警察も、医者も、教師も、誰も彼も、あの領域には手出しできないのだ。


 だからこそ、彼女なのだ。


 悪しき怪異が存在するのなら、それを鎮めるための清らかな存在がいたって不思議はない。

 彼女は、この土地に宿る守護霊のようなものか、あるいは、僕のような力なき存在の苦しみを見かねて手を差し伸べてくれた、気まぐれな神様のような存在に違いない。だからこそ、あの黒い塊の正体も、この土地の因果も見抜くことができた。人でない神聖なものであるからこそ、僕を救う力がある。


 そうだ、彼女は僕に言った。

『それはあなたの心が作り出した幻などではありません。全て紛れもない『事実』です』と。

 真実。なんと荘厳で、絶対的な響きを持つ言葉だろう。彼女は、僕が体験しているこの地獄を、単なる幽霊や呪いといった陳腐な言葉ではなく、世界の法則そのものとして捉えていた。

 それらは彼女が超越者であることの証明のように思えた。


 さらに、彼女は僕に道を示してくれた。


『学校の図書室へ行ってみてください。郷土史のコーナーがあるはずです』


 そうだ。僕には課せられた任務ができた。

 この土地に隠された秘密を、この怪異の根源を、僕自身の手で解き明かす。そのための具体的な行動指針が、僕にはあった。


 彼女が僕の味方であり、僕を救おうとしてくれている。その事実さえあれば、彼女が何者であろうと、僕にとっては些細な問題だった。

 僕は彼女に選ばれたのだ。そう思うと、体の底から新たな力が湧き上がってくるようだった。


 僕はゆっくりと立ち上がり、校舎の方へ向かって力強く歩き出した。午後の授業のことなど、もはやどうでもよかった。これから、午後の授業をさぼって、図書室へ向かい、郷土史の棚を片っ端から調べるつもりだった。そこではきっと、何らかの手がかりがあるはずなのだ。


 僕はこれからの調査計画を頭の中で組み立てていた。

 まずは学校の敷地の古い地図を探す。建設前のこの土地がどうなっていたのかを知る必要がある。

 次に過去の新聞記事の縮刷版でもあれば、この地域で起きた事件や事故を調べることができるかもしれない。彼女が言っていた『土地の記憶』。自殺や事故が多発していた時期はなかったか。何か周期性のようなものは見られないか。


 思考に没頭していた、その時だった。


「あの、すみません」


 不意に背後から、自分のものではない声がかけられた。女子生徒だ。先ほどの清らかなセーラ服の少女とは違う、少し高めの声だった。

 僕は驚いて足を止め、ゆっくりと振り返った。

 そこに立っていたのは、やはり、僕の知らない女子生徒だった。本当にまったく、見覚えのない顔だ。少なくとも、うちのクラスの生徒ではない。少し短めの髪を校則に合わせてきちんと結んでいる。派手さはないが、その大きな瞳は、どこか現実をしっかりと見据えているような、利発そうな光を宿していた。彼女は僕と同じこの学校の制服をきっちりと着こなしていた。

 彼女は僕が振り返ったのを見て少しだけほっとしたような表情を浮かべた。しかしその目にはまだ拭いきれない戸惑いの色が残っている。彼女は僕の顔と、僕のすぐ隣の空間を、怪訝そうに交互に見比べている。


「何か用か」


 僕は自分でも驚くほど落ち着いた声で尋ねることができた。


「あの……さっき、誰かとお話しされていたんですか?」

「ああ。話をしていたけど……それがどうかしたの?」


 僕は素直に認めた。

 しかし、僕のその返答は、彼女の戸惑いをさらに深いものにしてしまったようだった。


「でも、その……お相手の方が見えなかった、というか……。あなたが一人でずっと、何かを熱心に話しているように見えたので……」


 彼女の言葉に、僕は心の中で静かに頷いた。


(――そうか。やはり、僕以外の人間には見えなかったのか)


 当たり前だ。彼女は神聖な守護者なのだ。僕のような、怪異に深く触れてしまった人間にしか、その姿を認識できないのだろう。

 僕はこの子とは違う、特別な存在に選ばれたのだ。そんな奇妙な優越感さえ、僕の胸には芽生え始めていた。


「いや、一人じゃなかったよ。そこに女の子がいただろ?白いセーラー服の」


 僕は、彼女には見えていない隣の空間を、確信をもって示しながら言った。


「し、白い……セーラー服……?」


 引き攣った表情に変化している彼女は、戸惑いを隠せていなかった。確かに、この学校の制服は少なくともセーラー服ではないのだから、おかしな話ではある。


「ご、ごめんなさい!やっぱり何でもないです!」


 彼女はそう叫ぶと、僕に背を向け、逃げるようにして校舎の向こう側へと走り去ってしまった。


 僕は一人、その場に取り残された。


「まるで僕がおかしい人かのような反応だったな」


 そう独りごちた瞬間も、先ほどの女子生徒の、あの反応が、僕の思考にこびりついて離れなかった。


 おかしいのは、本当に僕の方なのか?それとも――。

 僕は自分の言葉を下の上で転がすかのように反芻する。


 ただ僕が独り言を言っているように見えたから?

 それだけで、あんなに表情を変えて逃げ出すだろうか。

 なぜだ?この学校の制服ではない生徒と話していた、ただそれだけのことが、あれほどの表情を生んでしまうのか?

 僕の思考が、答えの出ない問いの周りを空転し始めた。その時だった。


 ぞわり、と。

 背筋を、冷たい何かが駆け上った。

 ひとつの、考えたくもない可能性に、思い至ってしまったからだ。


(――見えない?)


 そうだ。セイラは、他の人間には見えない。


(――僕にしか、見えない)


 では、あの黒い塊はどうだった?

 資料準備室で首を吊っていた、あの人型の影は。

 中学校のフェンスにぶら下がっていた、あの黒いシルエットは。

 教室の暗がりに潜んでいた、あの無数の瞳は。


 あれらもすべて、他の誰にも見えていなかった。

 僕にしか、見えていなかった。


 僕の頭の中で、決して交わるはずのなかった二つのものが、音を立てて繋がった。

 僕を救ってくれるはずの【善なる守護霊】と、僕を苛み続ける【悪しき怪異】。

 その二つが、『僕にしか見えない』という、全く同じ性質を共有しているという、動かしようのない事実に。


 僕が必死に組み上げた理屈の城が、足元から崩壊していく。

 待て。落ち着け。まだだ。違う。きっと何かの間違いだ。

 セイラは、あの冷たいだけの穢れとは違う。彼女には、優しさがあった。温もりがあった。僕の涙を拭ってくれた、あの清らかな指先の感触があったじゃないか。

 そうだ、感触だ。あれは本物だった。


 ――本物の、感触?


 僕の思考が、そこで凍り付いた。

 カバンの中に手を入れた時の、あの感触はどうだ?

 冷たく、湿った、死人の皮膚の感触。ごわごわとした髪の毛の感触。生々しい唇の感触。

 あれもまた、幻覚では片付けられないほど、リアルな『感触』ではなかったか?


 もし、同じ性質を持つのであれば。

 もし、それらが同じ源から生まれているのだとすれば。


 僕が『希望の光』だと思っていた彼女は。

 僕が『救世主』だと信じたあの少女は。

 僕を絶望させるためだけに、あの黒い塊が見せた、最も巧妙で、最も残酷な、呪いの一種だったとしたら?


 ああ。ああああああああ。


 声にならない絶叫が、僕の内側でこだました。

 僕の足元から、世界が音を立てて崩れ落ちていく。僕がようやく掴んだと思った一本の蜘蛛の糸。地獄の底から僕を引き上げてくれるはずだった唯一の希望の光。

 それこそが、最も悪質で残酷な幻覚。


 そうだ。よく考えればおかしなことばかりだった。なぜあんなにもタイミングよく彼女は現れた?なぜ彼女は僕が望む全ての答えを持っていた?

 それは彼女が、僕自身の願望の現れだったからだ。僕が心の底から『誰かに助けてほしい』と願ったから。その悲痛な叫びが、僕自身の狂気と、あの少女の霊の無念とが重なり合って、一人の理想的な『救世主』の姿を形作ったのだとしたら?


 希望の光など、最初からどこにも存在しないのかもしれない。

 僕が見ていたのは、僕自身の絶望が燃え上がって発する、最後の燐光に過ぎなかったのかもしれない。


 僕はその場にへなへなと座り込んだ。

 もう何も信じられない。自分の目も、耳も、記憶も、思考も。

 僕という人間を構成しているその全てのパーツが、もはや信頼に値しない。

 この地獄から抜け出す術は、もうない。


 僕はコンクリートの冷たい床に額をこすりつけた。

 もうどうでもいい。

 何もかも。

 僕の精神は、完全にその機能を停止した。ただ無。その虚無だけが、僕の内側を支配していた。

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