第2話
一人の女子生徒が自らの命を絶ったという衝撃的な事実は、まるで水面に投げ込まれた石が起こす波紋のように最初は大きく広がったものの、その勢いを急速に失い今ではほとんど凪いだ状態に戻っていた。
学校という閉鎖された空間は驚くべき速さで日常という名の仮面を取り付け、何事もなかったかのように機能し始めている。授業は時間割通りに進み教師たちの声が教室に響き、生徒たちはノートを取り時折欠伸を噛み殺す。あの日あれほどまでに教室を満たしていた憶測と興奮の熱はすっかり冷え切っていた。
もちろん完全に元通りというわけではない。微細な変化は注意深く観察すれば見て取れた。休み時間の廊下で交わされる会話の断片にふと、亡くなった彼女の名前が聞こえてくることがある。その瞬間会話は一瞬だけ途切れ、誰もが気まずい沈黙を共有する。そして誰かが慌てて別の話題を口にするのだ。まるで禁忌に触れてしまったかのように。それは傷口が治りかけた頃に残るかさぶたのようなものだった。普段は気にならないがふとした瞬間に意識してしまい、掻きむしりたくなるようなそんな存在。
だがそんな些細な変化も僕にとってはほとんど無関係なことだった。僕はあの日以来、彼女の死について考えることをやめた。いや最初から真剣に考えてなどいなかったのかもしれない。僕にとってそれは遠い国のゴシップ記事を読むようなものだった。一瞬の興味は引くが自分の生活には何の影響も与えない。クラスメイトたちが無理に日常を取り繕っている様子を僕はいつものように水槽の向こう側から眺めていた。彼らは忘れることであるいは忘れたふりをすることで、平穏を保とうとしている。それは生存戦略としては正しいのだろう。僕もまた無関心でいることで僕自身の平穏を守っていた。その点において僕と彼らの間に本質的な違いはないのかもしれない。
その日の最後の授業が終わるチャイムが鳴った時、僕はいつも通り誰よりも早く席を立った。教室に残って誰かと談笑することもない。部活動に所属しているわけでもない。そんな僕は自ずとそういう役回りで教室から出ることになる。
ただ、僕にとっても放課後とは一日のうちで最も解放される時間だった。それは、この喧騒から逃れ自分だけの静寂な世界に戻るための重要な儀式。僕は学生カバンを肩にかけ、ざわめき始めた教室を背に廊下へと歩き出した。
昇降口で靴を履き替え校門を出る。西に傾きかけた太陽がアスファルトに長い影を落としていた。他の生徒たちの楽しげな声が遠くに聞こえた。僕は彼らの群れとは反対の方向へ一人、黙々と歩を進める。
自宅までの道のりはいつもと同じだ。見慣れた商店街を抜け住宅街の細い路地に入る。全てが日常の風景。僕の平坦な人生を表しているかのような、一本道。その見慣れた商店街を抜け、家路につこうとしたその時だった。ふとある違和感を覚えて僕は足を止めた。なにか忘れている。気のせいではない。何か確かにあるべきものを忘れている。けれど、それは何だっけ?と、思案するが出てこない。結局、僕はカバンを肩から下ろし中を探った。教科書、ノート、筆箱。一通りは揃っている。だがそこで一つだけ僕が忘れているものに気が付いた。
現代文の課題プリントだ。
確か今日の授業の最後に配布された薄い一枚の紙。教師が「来週の月曜提出だ」と言っていたのをぼんやりと思い出してきた。
ああ、おそらく机の中に置き忘れてきたのだろう。
舌打ちしたい気分だった。面倒だ。心底面倒くさい。今からまたあの学校まで戻らなければならないのか。来たばかりの道をまた引き返す。考えただけで全身から力が抜けていくようだった。
明日取りに行ってもいいかもしれない。いや、しかし土日に学校へ行くのもだるい。
月曜の朝早くに取りに行けば間に合うだろうが、その場で解答を作成することは容易ではないだろう。だとすれば、プリントを適当に記述して提出することになる。それは何よりも避けたい事態だった。補習なんて事態に発展することは僕の信条に反する。
仕方ない。僕は短くため息をつき踵を返した。たった一枚の紙切れのために僕の貴重な時間が奪われる。その事実が僕の気分を重く沈ませていた。
再び学校の校門をくぐった時、周囲にはもう生徒の姿はほとんどなかった。グラウンドから聞こえていた運動部の掛け声は遠くになっていて、ただ、周囲では風が砂埃を小さく巻き上げる音だけがしている。
意を決して、校舎の中へ足を踏み入れるとひやりとした空気を感じた。昼間のあのむっとするような熱気はどこにもなく、そこには完全な静寂が広がっている。
自分の靴音がやけに大きく床板を叩いていた。こつこつという規則正しい音が誰もいない廊下に反響して、僕自身の耳にまで届く。まるで僕という存在をこの静まり返った空間が拒絶しているかのようだった。
昼間あれほど人でごった返していた場所が今はまるで別の世界のようだった。窓から差し込む夕日は廊下を長く赤黒い色に染め上げていた。それは血の色を連想させたが僕はすぐにその陳腐な比喩を頭から追い出した。
目的の教室は二階にある。階段を上る足音がまた一つ、また一つと静寂に刻まれていく。僕以外にこの校舎に人間はいるのだろうか。まだ残っている教師かあるいは部活が終わった生徒か。しかしその気配は全く感じられない。この巨大な箱の中に僕がたった一人でいるという感覚が妙に現実味を帯びていた。
教室の扉は施錠されていなかった。そっと引き戸を開くと昼間の喧騒の残り香のようなものがわずかに鼻をついた。しかし、今の教室は静寂に包まれていた。
夕日に照らされた教室は全てのものが定位置に収まり、まるで時が止まったかのようだった。整然と並んだ机と椅子。黒板にはまだ最後の授業の板書が残されている。僕は自分の席へと向かい机の中を漁る。そこにはクシャクシャになっていた一枚のプリントがあった。目的のものを手にした安堵感よりも、早くこの場所から立ち去りたいという気持ちの方が強かった。プリントのしわを取ってから、カバンにしまい僕はすぐに教室を出た。
これで用事は済んだ。あとは来た道を戻るだけだ。そう思いながら廊下を歩き始めたその時だった。
廊下の突き当たり。僕が来た方向とは逆の奥まった場所。そちらの方から何か、言葉ではうまく表現できない感覚が伝わってきた。
それは音ではない。匂いでもない。視覚的なものでももちろんない。もっと本能的な何かが僕の注意をそちらへと向けさせた。まるでその一角だけ空間の密度が異なっているような奇妙な違和感。僕の足が自然と止まった。
早く帰るべきだ。理性はそう告げていた。こんな場所に長居は無用だと。
しかし、何かが気になった。どうしてもそこを確認したいという欲求が心の奥底にできていた。それに従ってなのか、僕の体はその理性に反してゆっくりとそちらへ向き直っていた。好奇心という言葉では片付けられない。もっと根源的な抗うことのできない何かに背中を押されているような感覚だった。まるで磁石のN極がS極に引き寄せられるように僕の意識は廊下の奥の一点に強く引かれていた。
やがて、抗うことができずに僕の足はその方向へと向いた。まるで何かに導かれるように、僕は廊下の奥へと歩き始めていた。
廊下の突き当たりにあったのは一つの部屋だった。
『資料準備室』と書かれた古びたプレートが扉にかかっている部屋。この部屋のことは僕も知っていた。普段は鍵がかけられており使われている様子はない。古い教材や壊れた備品などを保管しておくためのいわば校内の物置のような場所だ。生徒が立ち入ることはまずない。
その固く閉ざされているはずの扉がなぜかほんの数センチだけ開いていた。隙間からは深い闇が覗いていた。
なぜだろう。僕は自分の息を殺していることに気づいた。歩く時もつま先からそっと床に足を下ろし、物音を立てないように細心の注意を払っていた。誰かに見つかってはいけない。そんな強迫観念にも似た思いが僕の行動を支配していた。
僕はそのわずかな扉の隙間にゆっくりと顔を近づけた。冷たい金属の感触が頬に伝わる。隙間から中を覗き込んだ。
薄暗い室内。窓がないのか外の光は全く届いていない。積まれた段ボール箱、古い机や椅子、そして何かの模型のようなもの。その部屋の中央。天井の梁から何か黒い塊のようなものがゆっくりと垂れ下がっていた。
それはただの塊ではなかった。
僕はそれから目を離すことができなかった。じっと観察してしまう。やがて、目が暗闇に慣れてくるにつれてそれが徐々にはっきりとしてきた。それは紛れもなく人の形をしていた。だらりと垂れた両腕。力なく伸びた両脚。そして不自然な角度に傾げられた頭部。
それは首を吊った人間の姿そのものだった。
全身の血が急速に温度を失っていくのが分かった。体の芯から冷たい何かが這い上がってくる。声を出そうとした。叫び声を上げようとした。しかし喉がひきつりひゅうという、か細い息が漏れただけだった。
指一本動かすことができない。金縛りにあったように僕の体はその場で完全に硬直していた。
そのまま、どれくらいの時間が経ったのか分からない。
暗闇の中でその黒い塊がわずかに揺れたような気がした。
我に返った時、僕はただ衝動のままに体を翻していた。
逃げろ。
脳がそれ以外の命令を出すことを放棄していた。
僕は廊下を走った。自分の絶叫を聞いたような気がしたがそれが本当に自分の口から発せられたものなのかどうか定かではなかった。階段を駆け下り、何度も足をもたつかせながら昇降口を目指す。
これまでの人生で初めてだ、といえるほどの狂乱状態のまま、僕は外へと飛び出した。
校門を出ても僕は走り続けた。いつもの道を進んでいると認識する余裕すらがなかった。ただあの場所から一秒でも早く遠ざかりたかった。肺が痛み足は重い。それでも僕は足を止めなかった。止まってしまえばあの光景が背後から追いついてくるような気がしたのだ。
見慣れた住宅街の景色が目の前を高速で流れていく。いつの間にか日は完全に落ち街灯がぼんやりと道を照らしていた。
自宅のドアの前にたどり着いた時僕の体は限界だった。カバンから鍵を取り出す指が自分の意思とは関係なく小刻みに動いてうまく鍵穴に入らない。何度か試みた後ようやく鍵を開け僕は転がり込むようにして家の中に入った。ドアを閉め背中を預けてその場にずるずると座り込む。
荒い呼吸を繰り返しながら僕は暗い玄関でしばらく動けなかった。体は強張り、膝ががくがくと笑っていた。
なんだあれは。
いったい何だったんだ。
資料準備室で誰かが。
そこまで考えて僕はかぶりを振った。
違う。落ち着け。冷静に考えるんだ。
僕はゆっくりと立ち上がりリビングの明かりをつけた。慣れ親しんだ我が家の光景が少しだけ僕に平静を取り戻させてくれる。僕はキッチンへ向かい蛇口をひねって冷たい水を渇いた喉に流し込んだ。
あれは錯覚だ。
そうだ錯覚に違いない。
僕は必死に自分にそう言い聞かせた。あの資料準備室は長い間使われていない物置だ。中には古い教材や掃除用具が雑然と置かれているはずだ。
おそらく天井から吊るされたモップか何か、あるいは古いコートがハンガーにかかっていただけなのだろう。それが薄暗い中で人の形に見えた。それだけのことだ。
三日前にあの女子生徒の自殺の話を聞いたばかりだった。その記憶が僕の頭の片隅にこびりついていた。だからそんな先入観が僕に幻覚を見せたのだ。そうに決まっている。そうでなければ説明がつかない。もし本当にあそこに死体があったのならもっと大騒ぎになっているはずだ。僕が来る前に誰かが発見しているに違いない。
そうだ。全ては僕の勘違いだ。僕の心が勝手に見せた幻だ。
僕は何度も何度もその結論を頭の中で反芻した。論理的に考えればそれ以外の答えはあり得ない。僕は自分の臆病さを心の中で嘲笑った。たかが物置の暗がりに怯えて全力で逃げ出すなんて馬鹿げている。
そうやって僕は必死に自分を説得しようとした。自分の理性が恐怖に打ち勝ったのだと信じ込もうとした。
だが、瞼の裏に焼き付いて離れないあの光景は、僕が組み立てた脆い理屈を静かに嘲笑っているかのようだった。
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