白皙の少女

速水静香

第1話

 世界というものは退屈な反復作業によって構成されている。

 朝、決まった時間に目を覚まし歯を磨き、代わり映えのしない制服に袖を通す。

 毎朝、同じ道を通学して、同じ校舎へと吸い込まれるように入っていく。


 教室の自分の席に着けば、あとは時間が過ぎ去るのを待つだけだ。チャイムが鳴り教師が来て、教科書のページがめくられまたチャイムが鳴る。

 その繰り返しだった。変化を求める気力もなければ、そもそも変化が訪れるという期待すらとうの昔に捨ててしまった。


 僕にとっての世界とはそういうものだった。感情の起伏を伴わない平坦で、どこまでも灰色の一本道。その道をただ黙々と歩き続ける。それが僕の日常であり人生そのものだった。


 じりじりと肌を焼くような日差しが、教室の窓ガラスを通して床にまだら模様を描き出していた。夏の朝特有の気怠さを伴った熱気がよどむ空気の中、生徒たちのざわめきが低くうねっていた。

 一限目の開始を告げるチャイムが鳴るまであと十分ほど。僕は自分の席で現代文の教科書とノートを机の上に広げていた。特に予習をする、というわけでもない。ただ授業が始まるという事実に対して、形式的な準備を整えているに過ぎなかった。僕の周囲に存在するクラスメイトたちの存在は風景の一部として認識している。彼らが形成するいくつかのグループ。教室の後方で大きな声で笑い合っているのは、おそらく運動部に所属する連中だろう。彼らの会話はいつも部活動の練習内容か、動画サイトで見た動画配信の話、そうでなければ異性の話だ。その単純さが僕には少し眩しく見える時があった。

 そして、窓際の席で固まっているのは女子の集団だ。スマートフォンの画面を数人で覗き込みながら時折、甲高い声を上げる。彼女たちの世界はアプリの中にあるのだろう。きっと、僕が一生理解することのない、暗黙の了解で満たされた華やかで、そして閉鎖的な世界。


 僕はそのどちらにも属していない。いやどのグループにも属していない。友人と呼べる人間はこの学校には一人もいなかった。それは別に悲しむべきことではない。むしろ望んで手に入れた平穏だった。他者との関わりは面倒事を運んでくる。期待は失望に変わり親切は大きなお世話になる。そういう経験をこれまでの人生で何度か繰り返した結果、僕は一人でいることを選んだ。誰にも干渉されず誰にも期待されない。それは驚くほどに快適だった。


 だから僕はただ静かに、世界の外部から彼らを眺めている。まるで水槽の中を泳ぐ魚を観察するように。彼らの生態に興味がないわけではないが、その水槽の中に自ら飛び込もうとは思わない。ガラス一枚を隔てた向こう側は僕のいる世界とは違うのだ。


 教科書に印刷された文字の羅列を意味もなく目で追った。そこにあるのは、作者の経歴、作品の時代背景の解説だった。そんなものはテストの点数以上の価値を僕にもたらさない。ただの記号だった。

 いや、僕の目に映る世界は全てが記号の組み合わせでできている。クラスメイトも教師も、この教室という空間さえも。


 その時だった。教室の前方の扉ががらりという音を立てて開いた。入ってきたのは僕らのクラスの担任だった。くたびれたスーツを着た四十代半ばの男性教師。その手には出席簿ではなく一枚のプリントが握られている。彼のいつもと違うどこか強張った表情に、教室内のざわめきが少しだけ静かになった。


「あー、諸君。少し静かにしてくれ」


 教師の声は普段の覇気のなさが嘘のように妙に張っていた。生徒たちの視線が一斉に教壇へと集まる。僕も反射的に顔を上げた。


「急な話で悪いが、今から全校集会を行う。全員、速やかに体育館へ移動するように。もう一度言うぞ、今から全校集会だ。すぐに体育館へ移動しろ」


 その言葉を合図に教室は再び騒がしさを取り戻した。


「えー、マジかよ」

「だるい」

「何、なんかあったの?」


 あちこちから不満や戸惑いの声が上がる。僕もまたその感情を共有していた。面倒だ。それ以外の感想はなかった。せっかく手に入れた平穏な日常にイレギュラーな予定が差し込まれる。それは完璧に整えられた本棚にサイズの違う本を無理やりねじ込まれるような、そんな不快感に似ていた。今日の授業のスケジュールはどうなるのだろうか。もしかして、休み時間が短縮されるのか。そんな、ある意味ではどうでもいいことばかりが頭をよぎる。

 立ち上がり椅子を机の中に入れる生徒たちの流れに逆らわないように、僕も席を立つ。教室から廊下へ、そして階段を下りて体育館へと向かう人の流れ。その巨大な生き物の一部になったかのように僕はただ無心で歩を進めた。廊下の窓から見える空はうんざりするほど青く澄み渡っていて、灰色な僕の心の中とは対照的に見えた。


 体育館の中は外の暑さとはまた質の違う、むっとするような熱気で満たされていた。全校生徒が詰め込まれた空間は人の体温と湿気で息苦しいほどだ。床に直接座らされ学年ごと、クラスごとに整然と並ばされる。僕らの前には神妙な面持ちの教師たちが壁のように立ちはだかっていた。その誰もが口を固く結んでいた。しかし、それがただならぬ雰囲気だということは僕のような一介の生徒にも理解できた。

 やがて体育館のステージに校長が姿を現した。小柄で頭髪の薄いいつもは朝礼で当たり障りのない訓示を述べるだけの初老の男性。しかし、今日の彼はマイクの前に立ってもしばらく何も話さなかった。

 ただ目の前に広がる生徒たちの顔を一人一人確かめるように見渡している。その沈黙が体育館の空気を一層重くしていく。やがて、生徒たちのざわめきが完全に消え静寂だけが場を支配した。


 校長がゆっくりと口を開いた。


「……今から皆さんに、とても悲しい知らせをしなければなりません」


 その声はマイクを通しているにもかかわらず、勢いのなさが感じられた。


「昨日……昨夜のことです。本校に在籍する二年生の女子生徒一名が、自らその命を絶ちました」


 瞬間、体育館の空気が凍り付いた。誰かが小さく息をのむ音が聞こえた。あちこちで驚きと困惑の表情が浮かぶ。女子生徒の中には口元に手を当てて信じられないといった様子で隣の子と顔を見合わせる者もいた。


 自殺。

 その言葉が僕の頭の中で反響する。だがそれだけだった。何の感慨も驚きも悲しみも、僕の内側からは湧き上がってこなかった。

 ただ一つの事実として情報として、それを受け止めただけだ。二年生の女子生徒。それだけでは僕には誰のことか見当もつかない。この学年には何百人という生徒がいる。その中の一人。僕にとってはその他大勢の中の、顔も名前も知らない誰か。

 校長の話は続いていた。心のケアについて相談窓口の案内、命の大切さ。陳腐で聞き古した言葉の羅列。僕の耳にはそれらが全く意味をなさない雑音としてしか届かなかった。僕が考えていたのはそんなことではなかった。

 この騒動で今日の授業はいくつか潰れるのだろうか。もしかしたら午前中で放課になるかもしれない。そうだとしたらそれはそれで悪くない。家に帰って動画でも見ようか。それともゲームでもするか?

 一人の人間の死という本来であれば非常に重いはずの出来事が、僕の中では自分の日常のスケジュールを左右するただの一つに成り下がっていた。我ながら薄情なものだと思う。だがそれが偽りのない本心だった。話したこともない顔さえはっきりと浮かばない相手の死に対して、心を痛めることなどできようはずもなかった。むしろこの突発的な出来事によって、僕の退屈で平穏な日常が乱されたことに対するほんのわずかな苛立ちさえ感じていた。

 不謹慎だと言われるだろうか。だが心の中で何を思うかは僕の自由だ。そう考えながら僕はただ、校長の退屈な話が終わるのを待っていた。


 集会が終わり教室に戻ると、そこは先ほどまでの静けさが嘘のような異様な熱気に満ちあふれていた。まるで堰を切ったように誰もが口を開き、同じ話題について語り合っている。


「ねえ、誰だか分かった?」

「二年の女子ってことしか……」

「なんか、C組の子らしいよ」

「まじで?」

「いじめがあったって噂、本当なのかな」


 普段は決して交わることのないグループの境界線が今日だけは取り払われていた。

 運動部の連中も女子の集団も、教室の隅で静かに過ごしているような生徒たちでさえ、互いに顔を寄せ合い断片的な情報を交換し合っている。その光景はどこか異様だった。一つの大きな出来事の前に個々の関係性や立場が一時的に無効化され、クラスという一つの共同体が姿を現したかのようだ。


 彼らは自分が知っている限りの情報を持ち寄ってはパズルのピースを組み合わせるように、一つの物語を構築しようとしていた。自殺したという女子生徒の人物像、動機、背景。そのどれもが憶測と伝聞に基づいた不確かなものばかりだ。彼女は大人しい子だった。いや少し変わった子だった。友人関係で悩んでいたらしい。成績が悪かったのかもしれない。根も葉もない噂が真実であるかのように語られ拡散していく。


 僕はそんな彼らの輪から意識的に距離を取っていた。自分の席に座りただ黙って、その喧騒を眺めていた。誰かが僕に話しかけてくることもない。僕がそういう人間であることをクラスの誰もが知っているからだ。 

 それは僕にとって幸いなことだった。僕は彼らの会話に加わることはない。いや興味がなかった。彼らが作り上げようとしている物語は結局のところ、自分たちを納得させるための都合の良いフィクションに過ぎない。死んだ少女のためではなく自分たちの動揺を鎮めるために、彼らは原因を探し物語を求めているのだ。それはある意味、死者に対する冒涜とさえ言えるかもしれない。


 窓の外では変わらず強い日差しが降り注いでいる。蝉の声が教室の騒音に重なって、不協和音を奏でていた。


 結局誰が死んだというのだろうか。ふとそんな疑問が頭をもたげた。しかし次の瞬間にはどうでもいいという思考がそれを打ち消す。

 僕がその生徒の名前を知ったところで何かが変わるわけではない。僕の日常はこれからも続いていくのだ。


 周囲の生徒たちが思い思いの会話に熱中する中、僕だけが一人この出来事を完全に他人事として受け流していた。重苦しいようでいてどこか浮足立った教室の空気。その中で僕の心だけが不思議なほどに静まり返っていた。この事件は僕の世界の外側で起きた出来事だ。僕の日常に本質的な影響は何一つ与えない。僕はただ一人、そう思った。

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