帝国料理養成学校の落第生

霜月華月

序章 料理王が負けた日

 完璧に磨かれた銀色のシンク。シンクからポチャリと水滴が跳ねる音がする。蛇口に僅かに残った水分が落ちた音だったが、その些細な音が、この場にいる生徒全員の耳に聞こえる程に静寂が周囲を包み込んでいた。

 誰もが魅了される金色のさらさらロングヘアーに、ブルーの瞳。少し鋭い目だが、それでも見ようによっては愛嬌のある瞳。ぷっくりと膨らんだ可愛い頬から見えるのは整った鼻梁。そして小さく魅力的な口からは溜息が漏れる。

「……」

「お、俺がなぜ負けたんだ……完璧だった筈なのに……」

「完璧だと思っていたの?」

「……」

 少女ことアメノ・ムラクモは、淡雪のような色素の薄い身を隠すようにコック服を纏い、その登頂からサイドへと落ちる髪に手をやる。サイドの髪には紫の刺繍がしてあるリボンがしてあり、そのリボンが彼女の美貌を尚々引き立たせた。

 一方シンクの付近では、リノリウムの床に両手をついて悔しがるオーリウスの姿。土下座よろしくのポーズだが、そうなるほどに自分が敗北する事などありえない事だったのだ。

 自分より遙かに背が低く、そして華奢で、年齢までもが一回り以上幼い少女に睥睨される自分。

 ポチャリ――

「万年最下位のあなたが、私相手にここまでやった事は褒めてあげるわ。でもね、あなたはあなたらしくないミスをしたんじゃないの? 最下位であっても特殊調理食材の裁き方は知っていたはず」

「……」

 いや知らない。それを知っていたのはオーリウスという少年だ。涙が瞳から出てきて、ぽたりぽたりと床を濡らす。

「ベルセウス牛はうまく調理をすれば完璧な牛だわ。でもそれ故に調理が難しい。火を通しすぎると芳醇や甘美を通り越して、固く獣臭がする特殊食材。ある時間で火を止めれば口の中でとろけ、優美と言える香りと味になるわ」

 だから知らないんだって俺は、と言いたいのをぐっとオーリウスは堪える。

「付け合わせのメルン大根にしてもそう、特殊調理食材として名高いわ。一ミリの表裏の皮を残し、それ以上深く包丁を入れれば、ただの苦みと酸味の塊となる」

「……」

 アメノは瞳から色を無くすようにして睥睨しながら、打ちひしがれるオーリウスに吐き捨てるように言った。

 アメノと初めて会ったのは昨日の事。慌ててどこかへ行こうとするアメノと廊下でぶつかり、黒のスカートを捲し上げて、白のパンツが丸見えになっているのを見ているのも忍びないと思い、直してやろうと思って手を伸ばした所に

「こ、この! 無礼者の変態が――!」

 と、スナップの効いたビンタをされたのは懐かしい事だ。怒りで顔を露骨に歪めて立ち上がり、少し大きめの胸を揺らしながら、肩を怒らせて廊下から立ち去ったアメノを懐かしく感じる。

 その時は可愛い子だな……とか思ったりしたが、今のアメノにはその時のような可愛い仕草も、幼さも、甘えもない。

 あるのは料理や食材に対する情熱とある欲求。それ故に冷酷とも言える表情をオーリウスへと向けている。

「基礎がなっていないのも程があるわ。特に最終工程あれはないわ」

「……ぐっ……」

「ちっ――あれがなければ――いえなんでもないわ。それにしてもあなた、本当に料理に対してあれほど親切丁寧だったオーリウスなの? どんなに報われなくても食材には真剣にそして真摯に向き合ってきたオーリウス。今の料理方法を見たらとてもじゃないけどオーリウスとは思えないわ」

 そうさとオーリウスは地べたにへばりつきながら思う。

 そう。

 俺はオーリウスじゃない。

 中身である折原が目を開けると病院のベッドの上で、体を見ると自分じゃなかった……。

 事の始まりは一週間前になる。折原は地球で名誉のあるコンテストで優勝し、その祝勝会に出ていた。

 皆に祝われ、喜んだ折原。元より料理が好きで愛してやまない折原だったが、コンテストなどに出る事は好きじゃなかった。

 でも周りに促されて、出ませんという大人の常識の範囲から逸脱する訳にもいかず、奇跡的に出て優勝してしまった。

 でもその祝勝会の途中で目眩と吐き気に襲われてしまう。何日か前から熱はあった。それを我慢して体を酷使し、コンテストの料理を研究した代償がこれだ。

 やるからには負けたくはないという誰にでもある勝負根性が、折原を病に伏せさせたのだ。

 何日か病院のベッドの上で高熱が出てもがき苦しみ、どこかで気を失ってしまった折原。

 でも、次に目が冷めると熱が下がり、体が淀みのない空気に晒されるように身軽になっていて、なんとか命の危機は脱したと泣きそうになった。

 でも、よろよろと起き上がった自分の眼に映った人物は、全く知らない自分より少し目上の夫婦だった。全く知らない夫婦に抱きつかれ喜ばれた折原。

 なにかがおかしいと思った折原は鏡の前に行くと、それは自分じゃなかった。

 まん丸い目にブルーの瞳。童顔を思わせる少年の顔。更にシルバー色の髪。自分よりは遙かに低い身長。

「これは誰だ……まだ子供じゃないか……」

 なにかの間違いじゃないかと思い、鏡の前で口をへの字に曲げて笑ってみたり、自分の顔をつねっても見たが、鏡に投影されるエモーションは折原ではなく少年のままだった

 どう考えても30歳近くの自分の顔ではないと思い、謎の夫婦に俺は誰? と聞くと、夫婦は泣いて、あなたは長い期間、熱が出ていたから混乱してるのねと、再度抱きついてくるから困った物だった。

 その後、折原は夫婦から聞かされる事になる。

 あなたの名前はオーリウス、帝国料理養成学校に通う私たちの子よ、と。

 この時に料理学校と聞いて今後のビジョンについてピンとこなかったが、その数日後にめでたく退院し、落ち着いた頭でこう考えるようになった。

 この国はラビュリントスと言うらしい。そして料理が飛躍的に進歩しており、料理の腕次第では、料理の高官になれるらしい。

 その学校の名前はラビュリントス帝国料理養成学校。将来の料理高官を生み出す名門校だ。

(どうしてこの少年の体にいるのかは分からないが、でも新天地で自分の料理の腕を試すのは良いチャンスだ。頑張ってみよう。どうやって自分の体に戻るかも分からないし……)

 と、心に誓う折原であったが、でも現実に目の前で待ち構えていたのは、絶対的な敗北と苦渋と叱咤。更に待ち構えていたのは侮蔑の目。

「確かに授業の食材は事前に知らされる事はないわ。でも一度は料理した事のある材料ばかりの筈よ。そんな事まで忘れてしまうほどあなたは……まあいいわ、そんな事も解らないなんて、この学校にいる意味がない。今日はまぐれでなぜかA判定だったけれども。次回はないわ。あなた、後一度でもF判定取ったら退学だった筈よね?」

「え?」

「え? じゃなく、そうじゃなかったけ。もう一度じゃなかったかしら?」

 知らない。そんな情報は聞いてはいない。自分は昨日から復学し、一応念のためにその日は家に帰って、今日から寮に行くらしいのだ。

 ぽかーんと口を開けてアメノの顔を見上げる様にして見るオーリウス。そんななにか別な事を考えているかのようなオーリウスを見て、ちっとアメノは大きく舌打ちをしてから踵を返し、こう言葉を吐き捨てた。

「もう次の実践授業まで後数日だけど、この学校での最後の生活をエンジョイしなさいな。ではこれで失礼してもいいかしらデュランダル教官」

 実戦授業について追記


 オーリウスとアメノがいる位置から、遙か後方に配置されているテーブルに座るデュランダルは神経質そうに顔に掛けてあるモノクルを持ち上げ

「ダブルSの君は帰ってもよい。私は止める権利がないのでね」

 と、成績重視よろしく的な言葉を発したが、ついでにデュランダルは誰にも聞こえないようにこんな言葉を呟いた。

「本当にもったいないAどころかトリプルSだよあれは成功したら……正直成功品を食べたかったよ」

デュランダルが最後の辺りでなにを言ったのかは聞き取れなかったが、アメノはデュランダルの許可を聞いてから、ふん、ともう一度大きく鼻を鳴らすと、透き通る髪をファサリと靡かせて、毅然とした様子で調理室から立ち去って行こうとする。

 でも去りゆき際にアメノは奇妙な言葉をぶつりと呟いた。そうこれは無意識に出た言葉。その言葉の元は危機管理能力と言うべき物なのか、はたまたできる女の感と言うべき物なのか。それともデュランダルと同じく全く別な物なのか……。

「途中までは私と互角だった。芳醇な香りといい、溢れ出る肉汁やエキスなどといい。そうあれはオーリウスではできない職人の技」

 そう言いながらアメノは、首だけを少し曲げてオーリウスをちらりと見て、こんな言葉を漏れさせる。

「神技と言える途中までの料理行程、そして最後の凡ミス自体もありえない……彼は熱でなにか異変が起きたのかしら……いやそれはいいのよ……そんな事よりあの料理はもったいない……最終工程でこけやがって、涙がでるわ……」

 誰に聞こえない感じでぶつぶつと謎の言葉を呟きながら、颯爽と去っていくように見えるアメノ。そんなアメノの後ろ姿を眺めて、オーリウスは拳を作って握りしめるしかなかった。


 そうこれは帝国十二使の一人。氷帝の魔女が抱いた違和感と興味と食欲、そして自分の中で湧き起こった思いと怒りに対する八つ当たりなのだ。

本当のところアメノはそれほどオーリウスを叱責する必要はなかった。叱責しても自分にはなんの得も帰ってこない。でもこんな事を思わせてしまったオーリウスに八つ当たりするしか、あの場でこの思いを発散する方法はない。

 確かに、途中行程まであの腕で、調味料や食材の裁き方や使い方を完璧覚えてきたらどうなる、もしかすると自分を凌駕してしまうのではないか? とふと寒気を覚えてしまった事も確かだ。

 でもアメノはなによりも許せなく、欲しているものがあった。

 それは……。

 オーリウスの途中行程までの牛肉とトマトのオーブン焼き以外に他ならなかった。途中までの芳醇な香りを思い出しただけで、廊下を歩いている自分の足ががくがくと震えてしまい、こんな思考が頭を満たす。

思い浮かぶフレーズは簡単だ。それはオーリウスができないのであれば、あの状態のまま自分が代わりに料理を行い、手を加えた状態であの料理を食べてみたいぃぃ――! という氷帝の魔女としてはあってはならない思い。

でも食という名を冠する、燃え上がるような情熱が彼女の脳を活性化させる。

 立ち上る芳醇な湯気、牛肉のレアの赤み、そこから垂れ落ちるエキス、そして表面にうっすらと乗った油。更にそこへ乗せられたキュメロ産のピーマンとタマネギ。それにかける為のアマレレモンの味を想像して、アメノは更なる身震いを起こした。歯がかたかたとなる程に切望し、あの料理がなぜ失敗してしまったのかと思ってしまう。

 あれこそいつものオーリウスであれば成功させていたんじゃないかと、そこで何故か悔しさが溢れて歯がみをしてしまう。

 認めたくないのに、途中までの行程と過去のオーリウスの丁寧さを認めたくなる自分を叱責したくなる。

 そうこんな思いは許されない、なぜなら自分はこの学校の女帝であり、12使の一人であるから。

 つまらないプライドだが、将来の料理高官になる為には、それぐらいのプライドと根性がないとやっていけない。

 それはさておき、アメノの脳裏では、大根のサラダなどは実際どうでもいいのだ。切った瞬間にあれは失敗しているのだから。

「そうあれはどうでもいいのよ。あれは。問題は肉よ肉……」

 ぶつぶつと独り言を呟きながら廊下を疾走するアメノ。そして料理が好きすぎるが為にある思考をしてしまい、そして更なる欲望と葛藤がアメノの胸中を満たす。

 食べたい。でも失敗した事は料理人として許せない。いえそもそも私は女帝なのよ、なにを思って他人の料理に媚びているの? あーなにもかも許せない。

 どうしてここまで許せないと思うのか。それは単純明快な事だった。

 評価ダブルSを取った人物達は、互いの味見をしてもよいという素敵なシステムがあるからだ。あの料理、最後でこけなければ確実にダブルSだった。

 ということは食べれるし、尚且つ自分の空腹が収まり、こんな未完成な物に対する貪欲な渇望や女帝の名を貶める発想も生まれなかっただろう。

 そんな強い思いが頂点に達したのか、ついついアメノの口から欲望と食欲が言葉となって自然に漏れてしまう。

「ああ、オーリウスが出来ないのであれば、私があのステーキに最終工程を加えた状態で、ステーキを食べてみたかった……あー食べたいわ、あれはどれほど芳醇な香りと味だったのかしら……じゅるり……あー認めたくないのに、許されないのに……」

 口から出てしまう食欲という言葉が彼女の胃を浸食していき、ついにごくりと口内から漏れ出る唾液を嚥下してしまった。そんな風に、神格になり損ねたステーキを思い出し、我が世界へと突入しているアメノの背後から突然声が掛かった。

「会長どうされたのですか」

「ひゃん――!?」

 背後から掛かる声に、アメノは体をびくりと震わせて、背中にびりびりと衝撃が走るかのような寒気と衝撃を覚えた。気が集中してると、どうにも人の声が聞こえなくなるというのは本当の事らしいと思い、アメノは髪を掻き上げながら背後の人物を睨むために振り向いた。

 調理服越しからでも少しぽよんと揺れる胸をついついその人物は見てしまう。こんなにスタイルがいいのは反則だろうと。

 名前はハズキといい、生徒会長アメノ・ムラクモの参謀副官である。

 ハズキは身長が高く常にアメノを見下ろす形になるが、でもハズキにとって本当は見下ろされたいという願望の方が強い。

 綺麗に整えられた紫色のさらさらのショートヘアーにイケボ。目に掛けられたモノクルがきらりと光る。その目は鋭く、鷹をも想像させるが、実際のところ権力的と性格的問題で言えば鷹そのものである。淡いブラウンの瞳が髪に隠れ、端正な鼻梁と口、そしてシャープな顔立ちがその事で尚のこと強調される顔立ちだ。

 白のブレザーで統一され、赤のタイを付けているハズキ。その姿は貴公子を想像させた。

 ハズキはアメノの前でさっと屈むと、おんぶの姿勢を取る。

「どうぞ、わたくしめにお乗り下さい」

 ハズキは主にアメノにだけ忠誠を誓っている。背中を踏まれても構わないし、顔を踏まれてもいい。いやむしろそうされた方が無上の喜びを感じる。

 ハズキの思考回路は極上アメノ主義と言った方がいい。

 でも、ちっとアメノは舌打ちすると、本当にハズキの背中に足を乗せてこう言うのだから驚きだ。

「ちっ! 今度から、私の視界の前に立って声を掛けなさい! 分かった?」

「は、はい!」

「ところであなた、私がなにを言っているのは聞こえたかしら」

「? いえ? 全く存じ上げませんが、なにか」

「なんでもないのよ。今の言葉自体も忘れないさい」

「は、はい! 忘れます。なにも私は聞かなかった。聞かなかった……。

 どうにも機嫌が悪そうだが、その機嫌の悪い顔もサイコーと思っている事をハズキは決して言わない。いや言えない……。

 ハズキにとってもっとも恐るべき事は、主人であるアメノに嫌悪されること以外に他ならないからだ。

 アメノが機嫌が悪くなるのは当たり前だ。あの場に居たらこの膨れあがる内心を吐露させていたかもしれない。そんな事をすれば自分は他の十二使達に影で嘲笑され、蔑まれる恐れがある。

 それは絶対に避けなければならない。何故なら自分は女帝なのだから。

そんな事を思いつつ、むくれるアメノと、でれっとしたハズキを廊下の曲がりの影から見ている人物がいた。その人物は口元をにやつかせる。

「へー、なるほどなるほど。アメノ君にそこまで思わせたオーリウス君がいたと、ふむ、なるほど、なるほど。今後面白くなりそー」

 謎の人物が笑うと、廊下に伸びる影が変化し、口の付近が三日月になる。影を落としていたその人物は音を残さないように忍び足で静かに消えていくのであった。

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