明治政府の料理番

霜月華月

プロローグ

 店の扉に鍵を掛けたのは、時計の針が十二時を回り翌日へ変わった頃だった。煉瓦造りとガラス張りを基調とした、客受けもかなり良い洒落た店、西洋料理店フォルテッシモは鳴海景太郎をチーフシェフとした料理店であり、数ヶ月先の予約も埋まるほどの盛況ぶりである。

 フォルテッシモはフランス、イタリア、スペインなど各一国だけの料理を作るのではなく、西洋料理全般をお客様に食してもらおうという考えを基にして、オーナーと鳴海がしっかりと話し合い、総合的な西洋料理店としてオープンさせた店だ。

 一見すると、気軽に入れる店のように見えるが、店に入ったお客様は大概こういう感想を抱く。

 それは、ちゃんとした格式高いレストランだった、もう一度来たいと。

 鳴海は西洋料理界隈では年齢は若く、二十九歳の若輩者であると分かっている。だからこそ鳴海は努力家であり、日夜料理の研究を怠らない。勤勉な鳴海をオーナーのみならず従業員も認めている。

 鍵をしっかり掛けたかを確認した後に、鳴海はフォルテッシモで働く従業員に労いの声を掛けた。店と駐車場からは照明が消え、月明かりによって鳴海の姿が若干照らされ、濃い影を駐車場に落としていた。

「お疲れ様、今日もありがとう。また明日」

「チーフこそお疲れ様です。また明日です」

「お疲れ様でしたー、チーフ、またまかないを評価してくださいね、勉強になりますので」

「おっと、それなら厳しく言わせてもらうよ。ははっ」

「ありがとうございます」

 店がオープンした時から働いてくれている事務の女性は、鳴海と調理補助兼修行中である岸の声を聞いた後に別れの挨拶をすると車に乗り込んだ。

 鳴海は女性に別れの挨拶を返すと、車のキーを取り出し、ドアを開け、スポーツカータイプの愛車に乗り込んだ。

 キーを差し込み、エンジンを掛けると、愛車から軽快なエンジン音が鳴り響く。慣れた手つきでお気に入りの音楽をかけると、ギアを軽快に入れて車を動かす。

「今日のソースの出来映えは最高だったな」

 今日の鳴海は機嫌がすこぶるよかった。いつも頼んでいる野菜屋が赤く熟した最高のトマトを用意してくれたおかげで、ここ最近の中では良作といえるソーストマトが出来上がった。

「いつもこうならなぁ、苦労はしないんだけど」

 今日はお客様も大変喜んでくれたと鳴海は思い出す。レジを済ませて帰るお客様は彼にこんな言葉を掛けてくれた。

「今日は最高においしかったと思うわ。また来ますね」

 料理人にとって最高においしいと言ってもらえることは最高の喜びだ。そんな言葉を思い出しつつ、店の駐車場から車を出して、ギアを切り替えながら車を走らせる。

 フォルテッシモは小高い丘にあり、小道を道なりに抜けた先にはかなりの交通量がある国道に繋がっている。

 曲がクライマックスに入る頃になると、鳴海は歌に合わせるように鼻歌を歌いながら、国道に乗る為にハンドルを切って左折をする。

 一息息を吐いて前を見やると、対向車のライトがまばゆく光り、通り過ぎていく。ふと鳴海はハンドルを切りながら考える。

「忙しくて、近頃友達とも飲みに行っていないな」

 学生時代から付き合いのある親友は、溜息を吐きながら鳴海にこんな言葉をよく言うことがある。

「店も軌道に乗ったんなら、そろそろ結婚を考える歳じゃね? 俺らも若いような若くないような微妙な年齢だしな……」

 友達の言うとおり、自分も結婚適齢期なのかもしれない。でも、鳴海は結婚よりも味を極める為に仕事を優先している、ということを自覚している。

 それだけに耳に入ると痛い言葉だったので思い出しながら苦笑を浮かべる。釣られるようにして口からはこんな言葉が漏れた。

「これでいいのかもしれない。今、後少しだけは……」

 いずれ、結婚ということも視野に入れなければならない時期が来ることは解ってはいるが、何となく今の気楽な生活を壊したくはなかった。

「わがままなのかな、やっぱり……」

 料理以外では、お前はデリカシーがないからなー、なんてよく言われるが、その通りなのだろうかと鳴海は考えてから結論を出した。

「そうなのかもしれないな」

 少し物思いに耽る鳴海だったが、突然自分の視界に眩しい光が入ってきた。入ってきた光はもの凄い明るさで目を開けていられる状態ではなかった。鳴海は懸命に光から逃れるようにしながら顔を少し下に向ける。そして閉じていた瞼をゆっくりと開けると眼前を見据えた。

「ちょ、ちょっと待てよ――!」

 逆光の原因は対向車だった。対向車は鳴海の車に向かうようにして逆走をしてくる。自分に迫り来る危機を脳が認識した瞬間、激しい悪寒が全身に走り、鳴海の額と背中にはじっとりとした冷や汗が浮かんだ。焦ってブレーキを踏みハンドルを右に切ったが、しかし対向車のスピードは速く、衝突はもはや避けられない。

「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおっっっっっ――!」

 鳴海の喉からは悲鳴に似た叫び声が絶え間なく出る。口内が乾くとかそんなことを理解する時間もなかった。鳴海は目を見開き、迫り来る死を悟った。なにかを考えている余裕などない。衝突の瞬間、一瞬自分の耳に若い女性の声が入った気がした。

「鳴海さんは凄い才能の持ち主なんです。だから父も皆様も……」

 言葉の意味は解らなかった。そんな甘い声が脳裏に響いた瞬間、鳴海の体は淡い光に包まれてこの世から完全に消失した。

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