明治時代と外交職員
外務省職員の重役である小野田良介と外交翻訳官の村雨琥珀、そして良介の直属の上司である外務次官の青木周蔵が東京英国総領事館の副公使と面会をしたのが午後三時頃。それから数時間に渡り話し合いに及んだ。
面会の原因は、日本が進めているプロジェクトでのトラブルだった。大英帝国から日本に来ている優秀なお雇い外国人の造船及び鉄道に携わるエンジニアの数人が任期を終える前に祖国へ帰りたいと言い始めた。
民間及び政府側で雇っている職工及び技師と呼ばれるエンジニアなどのお雇い外国人の給料は高く、だからといってそれに対する不払いとかではなく、単にホームシックに罹り、本国に一刻も早く帰りたいという想いから起きた嘆願であった。
本国に残した家族や恋人、子供に会いたいという気持ちはお金で買えるものではなかった。
また勤務態度が悪く、職務を果たさないお雇い外国人は政府側や民間から雇用解約をできたが、それでも祖国へ帰ると言い始めた彼らのエンジニアとしての腕前は超一流といえるほどの凄腕だったので、雇用解約には持って行きたくなかったという政府側や民間側の異例的な考えがあった。
民間という体裁であるが、ほぼ政府主導による半官半民の状態だった民間事業であったし、また殖産興業を推進していたこともあって、この件は政府主導で交渉をすることになった。有能な彼らならば話を聞いてくれるという考えがあったが、しかし彼らの意志は固く政府側の説得交渉を聞くつもりはもうないらしい。
造船及び鉄道事業は、西洋列強及び欧化政策には欠かせないものだった。そんな事業に関わる彼らは日本人に巧みといえる造船や鉄道に関連する技術を教え、日本人の造船関連や鉄道関連のエンジニアを育てる目的も含まれていたので予定にない突然の帰国は国益の損害のみならず各事業に大打撃を与えることが想定できた。
彼らを中心にして進めていた事業やプロジェクトもあるので、下手をすればそれらの事業やプロジェクトは暫く放置するしかない状況に陥るだろう。
緊急的な案件だったので政府側は直接英国総領事館に相談をして、任期満了まで帰国を止めてもらえるように動いてもらう方が適切かと思われたがここで一つの壁に当たった。それは副公使のこんな言葉から出た。
「あなた方が、私を満足させられる料理を作ってくれたら、上の者に言って彼らの説得交渉に入ってもらうようにするよ。もっとも特命全権公使を含め上の者は今は東南アジアに視察に行っているけどね」
つまるところ、最初の壁は副公使との会談ということになる。政府の料理人が作る料理の出来映えを見て、そして味わって、説得交渉に乗り気にならなかった副公使に一蹴されたことは記憶に新しい。
青木は先に馬車で帰ったが、良介と村雨は憂さ晴らしついでといわんばかりに、街へ繰り出し、飲み屋を見つけて酒を飲んだ。飲み屋の時計を見ると、飲み始めてからかなりの時間が経っていることに気がつき、家で帰りを待っている娘が心配をしているなと思うと、手早く帰り支度を済ませ家路についていた。街の通り道には外灯のランプから灯りが照らされ、夜もかなり更けたなと良介はランプの灯りを見ながら思った。
灯りに照らされながらの帰り道、村雨は忌々しい口調でこんな言葉を虚空へ投げかけるようにして毒を吐いた。
「温かみがないんですかね。我々の抱える料理人が嫌いだからといって、こんなふうにいつも足蹴にするなんて」
副公使は良介のみならず、政府に対して上司のように命令をしてくることが多い。それは日本人が自らの手で自分を満足させる料理を作れるようになれるという項目が勝手に追加されていた。最初の話し合いにはなかった話なので、いっそう難しい条件になっていた。
優れた外国人料理人はホテルなどに存在していたが、それを使うことは許さないという意思がはっきりと表れており、青木のみならず良介などを困惑させる状況を作った。
日本人で西洋料理を作れるシェフは存在するが、それでも副公使を満足させる料理を作るシェフはいないと言えた。まだシェフが育ちきっていないこの時代では仕方がないことだった。
日本人と外国人の持つ味覚や価値観は違う。だからこそ出来映えなどにも徹底して文句をつけてくるのだろう。
簡単に言えば、遠い外国から船で長旅をしてきた外国人には偽物の味は受け付けなかった。
そう、副公使が求める味はただ一つ、生まれ故郷の本物の味だ。それ以外は妥協できない。そういう自分勝手な想いを抱くのは、疲れやホームシックを引き起こしている副公使とて例外ではなかった。
「いつも思うが、あなた達の作る料理は口に合わないね。味も変だが、なんか根本的に違う」
辿々しい様子で、時折通訳を介しながらそう伝えてくる相手側の言葉を思い出して、村雨は苦虫をかみ潰したかのような表情を浮かべ、大きく舌打ちをする。そんな村雨の横顔を見てから良介は、
「せめて、私たちのところにも西洋人のように有能な外国料理のグランシェフが居ればと思うがな、なにぶん難しいのが現状だ。修行中の日本人が多い中では尚更のこと」
と言いながら、年齢に適した小綺麗に整えられた髭を触り、居住まいを正すようにしてたるんだスーツの襟を直した。
料理は外交の華でもあるし、顔でもある。江戸から明治という歴史的な転換で日本には数は少ないが、お抱え外国料理人以外の純粋な外国人料理人がこの国に来てはいるが、自分たちの秘伝のソースとなるようなレシピは置いてはいかない。この味に辿り着きたければ、自分の目と舌で盗めというスタイルであった。
文明開化をしたこの国ではあったが、和食という調理以外の料理では圧倒的な差が開いているのは現実的問題であった。
素晴らしい料理であれば、その国の名は自然と有名になり一目置かれる。しかし逆を言えばそうではない料理を出す国は逆の目で見られる。
「料理は国の顔を象徴する。とはいっても文明開化をして間もないこの国の日本人料理人が西洋諸国のグランシェフのような味を出せない。故にどうするかなのだがな……」
考えていることを口に出した良介だが、その先の答えが出なかった。外国人を相手にする外交料理は本格的なフランス料理などが基本となるだろう。
井上馨の辞任で暗雲が立ちこめてきた鹿鳴館の接待でも、外国の猿真似と言われて笑われているこの国であったし、幕末から続く不平等条約など様々な不利な状態を持ったこの国であったから軽く見られていたのかもしれない。
良い例として、過去に英国人のパークスが造幣寮の新貨幣製造作業に対して、かなり口汚く罵ったこともあるし、造幣局開業日の祝辞でシャンパンの杯をテーブルに叩きつけて粉砕したこともある。この国の技術力に尽力をしたパークスですらである。
それでも我慢をした理由は、特命全権公使及び公使などはお抱え外国人などを紹介することもあるし、技術の底上げに力を貸すこともある。例として言えば、この国が力を入れている鉄道、通信、医学、語学、土木のみならず教育、建築他諸々に携わる者を派遣することもあった。
技術革新を進めているこの国にとって、それらを補助してくれる各外国総領事館との関係はケースバイケースといえた。
大英帝国のみならず外国人は気難しい。良介はそう考えると頭を抱えたくなった。
「この国には、彼らを満足させるほどの料理人は今はいないと言っても過言ではないだろ。とは言ってもあの凄腕達に帰られると困る。帰国問題どころか再任を頼みたいほどだったのに……しかし、うむ、料理が問題になるとは思ってもいなかった」
「もし、また新しい職工や技師などと契約しても彼らほどの凄腕がいるんでしょうか?」
「分からない。だからこそ政府側としては慎重にならざるを得ない。本来ならば帰国引き留め交渉や有能な職工や技師などを紹介してくれる筈の公使側が、こうも手を貸すことに乗り気でないのは異例中の異例としか言えないだろう」
「そうですね……ほとほと困り果てました……」
余談だが何回か政府から手紙や使いの者を出したが、英国総領事館の事務方はギザールにしか話を通してくれない。また大英帝国に駐在をしている駐英日本大使や手紙などで英国政府サイドに話を通そうとしたが、技師及び職工は日本に居るので、そちらの国に駐在している公使などと話をするようにとやんわりと話を断られた。
「うむ……大英帝国は造船のみならず鉄道も非常に優れているから職工や技師は有能な者が多いと思うが、個人個人までの能力までは判らんから問題なのだ。いざ新しいそれらと雇用契約を結び、使えない人物だった場合、また新たな凄腕といえる技師を探さなければならないだろう。しかしそんなことを繰り返していれば時間のロス以外の何物でもない」
良介の言葉に何回か村雨は頷くと少し考えるようにして言った。
「造船技術もさることながら、鉄道で言えば彼らが主体となって困難な場所と言える箇所にも設計してもらって線路が敷設できた実績もありますからね。近頃は日本人の職工や技師などにシフトするようになってきましたが、やはり頼れる外国人もまだまだ必要ですから……」
未来の話になるが明治二四年の横川から軽井沢間までに線路を通すためにシャービントンというお雇い外国人の土木技師の力を借りている事実もあるし、、明治二十四年や三十年にはフランシス・ヘンリー・トレヴィシックの力を借りて機関車を作成していることや、明治二十六年には官営鉄道神戸工場にてトレビシックの設計、指導を元に軸配置1B1タンク機の860型を完成させているし、九州鉄道方面ではドイツ人のルムシュッテルの指導があったことから難しい場所や場面ではやはり彼らの力がまだ必要だったのかもしれない。鉄道で必要な知識と言えば土木や蒸気機関、測量、そして線路などを作る製鉄や高度な製鋼の知識なども必要になるし、造船も蒸気機関や更には製鉄や製鋼などの知識も必要であった為、まだまだ日本人だけでは進められる事業とは言えない部分もあった。
村雨の話を聞いた良介は一際表情が険しくなった。そんな良介の口からはこんな言葉が漏れる。
「帰国引き留め交渉に入ったのが先月、既に今月には帰国をしたいとの胸を伝えてきている以上これ以上の時間を掛けるわけにはいかない。いつ頃、相手の上の者が帰ってくるかは分からないが、帰ってきてもギザールからは逃れられないような気がする」
「なんかわざと我々に強く当たっている節もありますしね」
「うむ……」
とは言ってもここは微妙なラインであった。仮にの話になるが、上役が帰ってきたことを想定して、ギザールに不満を持って、英国総領事館に直接良介達が赴き、ギザール以上の者を出せと言った場合、うまくいかなければ良介達のイメージは最悪な物になる可能性も秘めていた。
幕末では英国総領事館などを焼き打ちにしていた尊皇攘夷運動などがあるが、今はすっかり時は明治に変わり、外国との政治における政策は変わってしまっている。
「なんとも、どうしていいものでしょうか……」
「優れた料理人さえいれば……ローストビーフやビーフシチューでは駄目なのだ……」
二人の頭にあるのは料理さえ上手く行けばという考えしかない。会談において足りないのは完璧な料理人。答えは全てここに帰結していた。ではどうするのか、と考えていたところで前から何人かの人だかりがやってきた。
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