第27話 春香の記憶

美咲はその夜、恵子から預かった写真をじっと見つめていた。写真に映る女性──春香は、やわらかな微笑みを浮かべ、まだ幼い美咲を愛おしそうに抱きしめていた。その腕の温もりを、美咲の肌はもう覚えていなかった。


だが、胸の奥にほんのりと、温かい何かが灯る。遠く、霞がかった記憶の海に沈んでいた感覚が、波紋のように浮かび上がってきた。


「春香さん……お母さん……」


言葉にしてみると、不思議な感覚がした。恵子をずっと"お母さん"と呼んできた。今もその気持ちは変わらない。でも、写真の中の女性もまた、確かに自分を愛してくれた「母」なのだ。


翌朝、桜月庵では朝の仕込みが始まっていた。


「美咲さん、おはようさん」


梢が笑顔で声をかける。


「おはようございます」


少し元気を取り戻した美咲の表情に、梢はほっとした様子だった。


「今日は、椿様からのお願いで、少しだけ時間を作ってくれへん?」


「椿さんが……?」


頷いた梢に促され、美咲は離れの茶室へと向かった。


椿は、静かな茶室の中で、古びた木箱を前に座っていた。その前には、小さな朱塗りの和菓子盆があり、白と淡い桃色が交じり合った、上品な練り切りが置かれている。


「これは、あなたのお母さん──春香が最初に作った桜の練り切りよ」


椿は静かに語った。


「春香はね、とても繊細で、けれど芯の強い子やった。あなたを産むことになった時、一度は和菓子職人としての道を諦めかけた。でも、最後に作ったのがこれや。『この子に、春を届けたい』って言ってね」


美咲は膝を正し、練り切りを見つめた。


「……きれい」


口に運ぶと、ふわりと練乳餡のやさしい甘みが広がり、舌の上でほどけた。


「この味……」


瞬間、春の陽だまりのような光景が、脳裏にふっと浮かんだ。どこかで感じたことのある味、ぬくもり。そして、柔らかい手が、まだ幼い自分の手を包んでいた記憶。


「思い出したのかしら?」


椿が静かに問いかける。


「いえ……まだ全部じゃないです。でも……この味、知ってる気がします」


涙が自然と頬を伝った。


「春香は、最後まであなたを守ろうとしていたの。あなたが記憶を失っても、どこかで幸せに生きてくれるならって……」


「椿さん……」


椿は、そっと美咲の手を取った。


「あなたが戻ってきてくれて、春香もきっと喜んでるわ」


その言葉に、美咲は深く頷いた。


そしてその日、美咲は初めて、自らの手で春香の練り切りを再現してみようと決意した。椿の助言を受けながら、素材を選び、春香の残した手帳を参考に、慎重に形を整えていく。


「あんたの手、ほんまに春香に似てるわ」


椿がそう言って微笑んだとき、美咲の胸には確かな実感が芽生えていた。自分は、春香の娘であり、和菓子職人としての血を継いでいる──そう思えたのだ。


夜、美咲は店の片隅で、一人、春香に手紙を書くように言葉を綴った。


『お母さん、私、ようやくあなたの想いに触れることができました。ありがとう。私は今、ちゃんとここで生きています。桜月庵で、みんなと一緒に、そして悠人さんと共に……』


その手紙を、春香の写真の前にそっと置いた。


翌朝、ふと椿が言った。


「この店の新作、そろそろあんたの名前で出してもええんちゃう?」


「えっ……私の、名前で?」


「せや。春香の娘やない、あんた自身の、佐藤美咲としての味をな」


その言葉に、美咲の目に新たな光が灯った。


桜月庵での物語が、ここからまた新たに始まろうとしていた。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る