第26話 揺れる春の面影

日曜の午後、桜月庵はひときわ静けさをまとっていた。暖かな春の陽射しが縁側を照らし、風に揺れる簾の向こうでは、小さな花びらが舞っている。


美咲は、工房の帳場に腰を下ろし、春香の手帳をそっと開いた。まだ読みきれていないページが、数枚だけ残っている。その一つに、ふと目が留まった。


> 「四月六日。椿母さんの“桜酵母”がやっと安定してきた。美咲が元気に育ってくれるなら、どんな手間でも惜しくない。名前も、桜の季節に決めたい」




その日付を見て、美咲の中で何かが弾けた。


──四月六日。見覚えがある。


いや、もっと正確に言えば、“感覚”があった。春のある朝、何かをぎゅっと握っていた手。誰かの声。白い光。そして、遠ざかっていく何か……。


「……私、あの日に何かを失った」


ぽつりとつぶやいた美咲の手は、無意識に震えていた。


その夜、桜月庵に一本の電話がかかってきた。


「美咲さん、東京から……養母の恵子さん、です」


梢がそう告げたとき、美咲の心臓は跳ね上がった。


受話器を握る手が冷たくなる。懐かしい、けれど遠い声が聞こえた。


「……美咲?」


「……うん、恵子さん……」


「会いたいの。今すぐじゃなくてもいい。でも、ちゃんと話したい」


「……私も、話したい」


翌週、美咲は休みをもらい、東京へ向かった。


懐かしさと緊張が入り混じる街。かつて通いなれた道を歩き、駅近くのカフェで恵子と再会した。


恵子は変わっていなかった。優しい目元、少し猫背気味な背中。コーヒーを前にしても、すぐには言葉が出てこなかった。


「ずっと、気になっていたの」


そう言ったのは恵子の方だった。


「美咲が京都に行ってから、きっと何かを探してるんだろうと思って。でも……私、止められなかった」


「ううん。恵子さんは、いつも見守ってくれてた。だから今、こうして進めてる」


「本当にそう思ってくれる?」


「うん。……私、最近、記憶の断片が少しずつ戻ってきてる気がする。春香さんの手帳を見て、自分の名前の由来を知って、あの人が私を生んでくれたことを、やっと受け入れられるようになった」


恵子は微笑んだ。


「よかった。あの子が残したものが、ちゃんと美咲に届いたのね」


その言葉に、美咲の胸の奥がじんと熱くなる。


恵子がカバンから一通の封筒を差し出した。


「これね、春香さんが最期まで肌身離さなかったっていう、写真よ。病院からの返却物に入ってた。あなたが見るべきだと思って」


美咲はそっと封を切り、中から一枚の古びた写真を取り出した。


そこには、春の日差しの中、笑顔の春香と赤ん坊の美咲、そして……まだ若い椿が並んで写っていた。


「私……この場所、知ってる。ここ、桜月庵の庭……」


その瞬間、美咲の脳裏に、光のような記憶が駆け抜けた。


──春の日差し、淡い桜の匂い。優しく抱かれていた腕のぬくもり。


ぽろりと涙がこぼれた。


恵子はそっと美咲の手を握った。


「記憶は、消えたんじゃない。眠っていただけ。あなたがそれを迎えに行ったんだよ」


美咲は小さく頷いた。


「……ありがとう。育ててくれて、ありがとう」


恵子は何も言わず、ただその手をぎゅっと握り返してくれた。


その夜、美咲は久しぶりに深い眠りについた。


そして夢の中で、母・春香が笑っていた。桜の花が舞う中、美咲に優しく語りかけるように——。

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