E08-01 悪趣味王子と黒幕の囁き

モルテヴィアの王宮に、嵐が吹き荒れていた。

――内政の混乱という名の、見えない嵐である。


その中心となる王太子のアスラド王子は、私室に設えた黄金の椅子にだらしなく腰かけ、酒杯を片手に足を投げ出していた。


極彩色の衣服は襟が開けられて浅黒い肌が露出し、白金の髪も乱れている。


「ノーラの次期大公を名乗る平民女から、まだ返事がないだと……!? この俺を誰だと思っている!モルテヴィアの『征服王』アスラド様だぞ!」


アスラドは宝石で飾られた杯を乱雑に握り、苛立ちを募らせていた。


ここはアスラドの私室である。


本人は自慢げに『征服王の間』と呼んでいるが、その内装は一言でいうと『悪趣味の極み』だ。


壁には異国の美女の絵画、床には獣の毛皮。


天井からは血のように赤い絹幕が垂れ下がり、部屋の隅にはかつてモルテヴィアとの戦いで敗れた敵国の旗が、大槍に突き刺されて並べられている。


酒と香油の入り混じった甘く重たい臭気が、部屋に立ちこめていた。


「身の程知らずの平民風情が、この俺を……っ、第三大陸トリア・ゼラム一の大国の時期王を蔑ろにするとは、許せん!」


怒鳴り声とともに杯が机に叩きつけられ、赤い液体が床に飛び散った。


「落ち着きなされ、アスラド王子」


しゃがれた声が響く。


現れたのは、灰色の長衣ローブをまとった老人――名をグラディウスという。


元モルテヴィア魔術院の院長にして、いまは王子の指南役の立場にある人物だ。


グラディウスは、かつてカストゥール王国に存在した星塔アストラリウムの研究において、最も深くその核心に迫った魔塔研究の第一人者でもある。


星塔理論において有名なのが『星環論』と呼ばれる学説だ。


それは『星色のマナ』――大地の霊脈に干渉する特異な魔力の存在を基軸とする理論であり、かつてグラディウスが体系化したものだった。


この業績により、グラディウスは一時期、各国の魔術院からも一目置かれる存在となった。


だがその研究は、やがて禁忌の領域に足を踏み入れ、グラディウスは表舞台から姿を消した。


――その男が、いま、アスラド王子の側にいる。


「陰気な声を出すな。酔いが冷めるではないか」


「これは失礼。ですが酒とて無料タダではありませんのでな。王子の浪費は――」


「黙れ!!」


アスラドが怒鳴り、椅子の肘掛けを拳で叩く。


「俺はモルテヴィアの王太子だぞ!? 『星落の災厄』で父王が死んで早八年! 王位は俺のもののはずだ……それを議会の連中がぐずぐずと……!」


八年前、冷酷な支配者であった父王ヴォルドゥスが、突如として崩御した。


アスラドはその混乱に乗じて兄姉を粛清し、数年かけて王太子の座を強奪した。


だが、アスラドによる政治はひどいものだった。


浪費、女遊び、そしてまた浪費。


国庫は干上がり、事態を憂いた議会はアスラドの即位を今も否認し続けている。


「戦争さえ起こせれば……! 昔のように戦って、勝ち取って、奪って、潤うんだ……!」


風が吹けば侵攻をはじめると揶揄されるほど、モルテヴィアはかつて戦争によって富と栄光を得てきた国だった。


だが今、その体力はない。


父王が死んだ同じ夜、第一大陸プリマ・セレスにある敵国カストゥール王国が、星塔アストラリウムと呼ばれる魔塔の暴走によって消滅した。


未曾有の災厄――『星落の災厄』である。


当時、モルテヴィアとカストゥールは戦争中だった。

敵国が自滅したことで勝利したものの、王を失ったモルテヴィアもまた混乱に沈んだ。


しかも、敵国の滅亡は略奪の機会さえ奪ってしまった。


第一大陸プリマ・セレス第三大陸トリア・ゼラムから遠く、しかも跡地は災厄によって汚染されている。


勝って得たのは空虚な勝利だった。


星落の災厄から八年。


財政難にあえぐモルテヴィアの矛先は今、新興国家ノーラへ向かおうとしていた。


ノーラ公国――転移陣ポータルの中継地として栄える資源国。


次期大公・エルシア=ノーラは若く、美しい。


「見てくれだけはいい。白い肌に、男を誘うような目をしている。だがな、どんな気取った女でも、一晩じっくり躾けてやれば、すぐに足を開くようになる……ふ、ふふふ……」


アスラドの口元が歪む。


「清らかな顔が涙と鼻水でぐちゃぐちゃになって、俺に縋って懇願するんだ……はははは!たまらんだろう、なあ? おまえの媚薬の呪術で『聞き分けよく』すればいいんだ」


「……ご自重なされ、王子」


グラディウスが一歩進み出た。


その顔に浮かぶのは、嫌悪ではなく無関心だ。


アスラドの残虐さは、いまに始まったことではない。


どれだけの娘が、夜の『遊び』に使い潰されたかもはや数えきれない。


グラディウスは、呪術で言いなりにした娘たちの後始末を、誰にも知られぬよう引き受けてきたのだった。


「ノーラに潜り込ませた間者からの連絡は、途絶えたか……」


辺境伯ガロがノーラの首都プリマシアを訪問したと連絡を受けて以降、グラディウスの手の者からの報告はなかった。


「ところで、王子は『器』が失われた夜のことを、覚えておいでですか?」


「なんだそれは。昔の話など知るか」


「ですが……『器』とは、もともとこの国のもの。エルシア=ノーラ――いえ、『器』は、本来モルテヴィアに属する存在なのですぞ」


アスラドの目が細められた。


老魔術師の言葉の意味は、酔った頭には理解できていない。


だが、この国のものとは、すなわち自分のものということだ。

 

その響きは気に入った。


「つまり、あの女はもともと俺のものってことか?」


「まったく、仰る通り」


グラディウスは静かに頷いた。


「『器』は、星塔アストラリウムに繋がる鍵。かつてのようにモルテヴィアが真の魔術国家として甦るには、エルシア=ノーラを取り戻す必要があるのです」


「ふん、何を言っているのかわからんが、まあいい。もとよりそのつもりだったさ。ふふふ……金も、女も、魔術の力も。全部まとめて俺のものにしてやる」


アスラドは酒杯に残った雫を舐め取り、唇を歪めた。


「なあグラディウス。あの女の『器』としての価値、確かめるためにも……一度、壊してみるのも面白そうじゃないか?」


「……王子のお心のままに。すべては我らが『始原』に至るため」


その言葉とともに、グラディウスの瞳の奥に、仄暗い光が灯った。

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