トリエステの指輪

緋櫻

トリエステの指輪

 雨粒が頬をたたいたような気がした。それは気のせいではなく、雨はポツポツと、やがて激しく降り始めた。今鳴ったのは遠雷だろうか。頭の片隅で思い巡らせるが、そんな場合ではないと、男は愛銃の弾倉だんそうに弾を込めた。狭い路地裏で身を小さくし、息を殺して耳をすますと、さっきから自分をつけ回しては撃ってくる二人組の声が聞こえる。

「いたか?」

「いや、こっちにはいない。……クソッ、どこに行きやがったんだ、あの野郎!」

 このまま隠れてやり過ごせるだろうか。そんなことを思案していると、小さな手が男の服をぎゅっとつかんだ。男は辺りを見回して誰もいなくなったことを確かめると、小さな手の主に優しく笑ってみせた。

「大丈夫だ。奴らはもう行ったよ」

 ほっとしたように力なく笑う女の手を取り、男はもう一度微笑んだ。

「でも、やっぱりここトリエステはもう危険だ。できるだけ早くイタリアを出よう」

 女はこくりとうなずいた。少しでも雨よけになれば、そして顔を隠せればと女の上着のフードを深く被らせ直し、二人は路地裏を後にした。

  



 少し遡って二日前の早朝。イタリア、トリエステの街。男は自分一人なら絶対に泊まることのない、豪華な宿アルベルゴの一室に呼び出されていた。とある任務の説明を聞くためである。組織マフィアカポから手渡されたのは一枚の写真。若く美しい女の横顔が写っていた。横には乱暴な文字で標的の女の名前が書き殴られている。

「この間の麻薬の取引は上手くいったようだな。ご苦労だった。……次のお前の仕事はこの娘だ」

 盗撮されたものだろうか。ブレてはいないが写りの悪いその顔を、男はよく知っていた。

「……ニナ」

 その娘は、男の旧知の人物であり初恋の相手だった。男の脳裏にいくつかの鮮明な記憶がよぎる。

 屋敷の裏にある立派なバラ園。そのバラ園に隠れるように存在する二人の秘密基地。家政婦だった母に連れられて屋敷に通っていた頃、よく彼女の手を引いて駆け回った。

 甘く幼い記憶を振り払い、男はカポに視線を向ける。

「そうだ。ニナという、ある資産家の娘だ。そいつの父親が依頼主の恨みを酷く買ったらしくてなあ……父親のほうはもう別の奴を向かわせた。今頃死んでるだろう」

「今どき殺しの依頼だなんて、また物騒な依頼ですね。……この女のほうは?」

「ああ、その娘はお前の獲物だ。……確実に殺せ」

カチャカチャと銃をでてはもてあそんでいたカポの目がギラリと光り、男を射貫く。その目が、目の前の老人がしわだらけのただの老いぼれではなく、歴史あるマフィアのカポであることを男に思い出させる。

「依頼者は……?」

「明かせないのはお前も知ってるだろう。そもそも、お前がその情報を知ってどうする?」

 ふんぞり返るように座っていたカポが体を起こして男の顔をのぞき込んできた。まるで獲物を狙うたかのように。

「調べはついている。お前、その小娘と顔見知りだよなあ? 裏社会の住人マフィアになるより前からの付き合いだったか……ま、どうでもいいか。もしお前がその女を逃がしたり助けようとしたりすれば……分かるな?」

 ごくりと、男は唾を飲み込んだ。カポが銃口をこちらに向けているのだ。

「もちろん俺はそんなことしませんよ、カポ。全てはカポ組織ファミリアのために」

 男はそう答えるしかなかった。カポは満足げにうなずき返した。

「ああ。期待しているぞ、レオーネ」


 そこからどう道を辿たどったのか。ふらついた足取りで向かった先はニナの家だった。赤煉瓦れんがの塀の向こうの、いつ見ても立派な屋敷。その屋敷の前でこれから殺さなければならない娘のことを想い、レオーネは立ち尽くした。

「レオーネさん?」

「お嬢さん……」

 振り向くと出かけた帰りらしい女の姿があった。ニナだ。

「久しぶりですね。……会うのはあなたのお母様がお亡くなりになって以来かしら?」

「十六歳のときに母が亡くなってから五年程経つので……それ以来ですね」

「もうそんなに経つんですね。立ち話も疲れますし、どうぞお入りになって」

「いえ、そんな訳には……近くを通りかかっただけですから。それに俺は……」

 レオーネは門を開けて招き入れようとするニナを止めようとした。

「遠慮しないでください。久しぶりに私とお茶してくれませんか? ちょうど話し相手を探していたんです。」

「……そういうことなら、少しだけ」

 結局、レオーネはニナに言われるままに屋敷へと足を踏み入れた。まだ幼かった頃、彼はこの屋敷で家政婦をしていた母に連れられて毎日のように通っていた。記憶の中の風景と全く変わらない調度品の数々が彼に安心と懐かしさを感じさせた。

「今日は天気もいいですし、テラスでいいですか?」

「……いえ、この後は天気が崩れるそうですよ。屋敷の中にいたほうがいいでしょう」

 レオーネはニッコリと微笑ほほえみながら息をするようにうそをついてみせた。この女を殺すために雇われているのが彼だけとは限らない。狙撃手に狙われればレオーネは彼女を守りようがないのだ。

「それなら客間へ行きましょう」

 ニナはレオーネの言葉をこれっぽっちも疑うことなくそう言い、彼を客間へと案内した。


 ニナは客間にコーヒーと菓子ドルチェの用意をさせると人払いをし、レオーネを部屋に招き入れた。

「それで、今までレオーネさんはどこで何をしてたんですか? あなたのお母様が亡くなって、屋敷近くの家を出られてしまってからは連絡も取れなくなったから。心配したんですよ」

「あんなにお世話になったお嬢さんに今までなんの連絡もできなくてすみませんでした。俺は……今は遠縁のツテを辿って住み込みで宿アルベルゴの受付の仕事をしています。なんとか元気にやってますよ。それより、お嬢さんはどうされていましたか?」

「私は、今年の秋から大学に行っています。……レオーネさん、この家にいてくれれば良かったのに」

「えっ……?」

 彼はコーヒーカップに伸ばしかけていた手を止め、ニナを見つめた。

「いえ、なんでもないです」

 しかし、ニナは首を振るばかりでそれ以上話そうとしない。レオーネはチークの色ではない、明らかに紅潮こうちょうしている彼女のほおに気づかないふりをした。

「ご主人様は今どちらへ?」

 鈍感なふりを続け、屋敷に足を踏み入れてから一度も姿を見ない彼女の父親の行方を尋ねながら出されたコーヒーカップを手に取る。

「それが……父と昨日の晩から連絡がつかないんです。一体どこで何をしてるのやら……どこかで酔っ払って他人様に迷惑を掛けていなければ良いのだけれど」

 困ったような笑みを浮かべながら、ニナもコーヒーカップを手に取った。その瞬間、レオーネは叫んだ。

「飲まないで!」

 体を硬直させ、彼女は驚きと少しの恐怖を含んだ表情で彼を見つめた。飲む手を止めた勢いでカップからあふれたコーヒーが絨毯じゅうたんらした。

「レオーネさん、どうしたんですか……?」

「そのコーヒー、毒が含まれてます」

「えっ……」

 カップが彼女の手から落ち、机にぶつかって割れた。飛び散ったコーヒーがロングスカートの裾をらす。しかしレオーネはそんなことは気にも留めず、立ち上がって部屋の扉に耳をあてて外の様子を伺うとニナのほうへ振り返った。

「俺のコーヒーから微かですが刺激臭がします。致死量ほどもないでしょうけど、毒物が含まれています」

「なん、で……」

 レオーネは取り乱したニナを落ち着かせるために近づき、手を取った。

「落ち着いて。飲んでないなら大丈夫ですから。まずは深呼吸してください。吸って……吐いて……」

 ニナの呼吸が整ってきたことを確認すると、レオーネは静かに話し始めた。

「ご主人様は何者かの反感を買われ、マフィアに命を狙われています。そして、それはお嬢さんも同じです」

「なぜ、あなたがそんなことを知っているのですか……?」

「……俺は、お嬢さんを殺すよう命令されてここに来ました」

「どう、して……どういうこと?」

「それは……俺がマフィアだからです。すみません、真っ当な職業に就いたなんてうそをついて」

 ニナが怖がらないよう、レオーネはできる限り優しい声音こわねで穏やかに話すよう努めた。

「俺がマフィアである以上長カポの命令は絶対。それでも、俺はあなたに生きていて欲しかった。だから正体を明かしました。……必ずお嬢さんを守り切ると約束しましょう。お願いです。今だけは、俺を信用して着いてきて欲しい」

「なぜ……そんな……」

 ニナは俯いてつぶやき、そして叫んだ。

「それならなぜ! あなたのお母様が亡くなられたとき、あなたはここに留まってくれなかったのですか⁉」

「お嬢さん?」

「あなたのお母様のお葬式が行われたあの日、私は行く当てがないと言ったあなたに何度もここにいて欲しいと言ったのに! どうして……」

 そのときだった。鈍い爆発音とともに地面が揺れた。

「なに!?」

「俺の同業者マフィアです。クッソ、殺すためとはいえ、爆弾まで仕掛けてくるかよ……」

 レオーネは毒づきながら窓の外をのぞいた。

「お嬢さん、この屋敷はもう危険だ。ひとまずここを離れましょう」

 そう言うが早いか、レオーネはニナの足と腰に手を添えて抱きかかえると窓を突き破る。

「ここ二階ですよ!?」

「口閉じて!」

 彼は落下の衝撃を膝のバネで緩和して着地すると、すぐに周囲を見渡し、彼女を抱きかかえたまま屋敷から逃げるために使用人が使う裏門に向かって走り出した。しかし、二人の行く手を阻む者たちがいた。

「やっぱり毒は飲んでくれなかったみたいだな。ま、死ぬほどの量をコーヒーに溶かせなかったんだけどよ」

「だから言ったじゃねぇか。下働きの女の目を盗んでコソコソ侵入して、そんなチマチマした小細工するなんて面倒なことしてねぇでとっとと爆破させようぜって」

「だからって勝手に爆弾作動させてんじゃねぇよ!」

「こうして部屋からノコノコと出てきてくれたんだから目論見通りだろ? いいじゃねぇか!」

 楽しげに談笑するガラの悪い二人組をにらみ付け、レオーネは退路を確認した。

「ああ、正門から逃げようったってムダだぜ? そっちにも爆弾が設置済みだ。とびきり威力の高い奴をなぁ!」

「レオーネさん……」

 レオーネは二人組の品のない笑い声を無視して打開策を練り出した。そんな彼の服の袖がぎゅっと引っ張られた。見ると、ニナは今にも泣き出しそうな顔で彼を見つめていた。袖をつかんで震える彼女にレオーネは優しく微笑んだ。

「大丈夫です。……ねえ、お嬢さん。幼い頃にあなたと作った秘密基地、まだありますか?」

「ええ」

「なら、そこから外へ出ましょう」

 レオーネはそう言うと抱きかかえていたニナを降ろした。

「合図したらあの場所へ。トレドゥエウーノ!」

 掛け声に合わせて彼女は走り出した。向かう先は裏庭。立派な庭園のバラ園に隠れるように存在する秘密基地には壊れた小さな扉がある。レオーネは昔、辛うじて人が通れるよう壊れた扉に手を加えていたのだ。ニナは震える手を握りしめ、走り慣れていない足で懸命に裏庭へと向かいバラ園を駆け抜けた。

 ニナが走り出した背後では煙幕が広がる。レオーネが発煙弾スモークグレネードを投げたのだ。ついでに懐に隠していた拳銃で二、三発撃ち込んで牽制けんせいしておく。そしてすぐに彼女の後を追い、駆け出した。


「なんとかけたようですね」

「そう、ですね……」

 ニナは息を切らしながら答えた。二人は人の多い繁華街へと逃げ込み、追っ手を撒き切ったのだった。レオーネはふところから拳銃をのぞかせて彼女に笑いかけた。

「人の多い場所だとコイツが使えないから、奴らに近づかれたときが不安だったのですけど……なんとかなりましたね」

 いきなり見せられた物騒な武器にニナは小さく悲鳴を上げた。それを見て、レオーネは慌てて拳銃を隠し直した。

「それで……これからどうするんですか?」

「ひとまず奴らに見つからない場所に行こうと思います。まだ歩けますか?」

「……ええ」

 レオーネは不安そうなニナの手を取り、軽快に言った。

「行きましょうか、お嬢さん」

 そのままレオーネの案内で二人は町外れの住宅街へと向かった。道中の店で二人分の食べ物やニナの着替えを購入する。もうすぐ日が沈む時間だが、二人は駆け回る子どもたちを何人も見かけた。きれいで立派な屋敷で暮らしてきたニナには縁遠い、ほこりっぽく薄暗い路地。見通しの悪い路地を何度も曲がって辿たどり着いた同じような造りのアパートの一つの扉を開け、二人は部屋の中へ入った。

「ここは……?」

「俺の拠点の一つです。ここを知る奴はほとんどいないし、しばらくはここで過ごして様子を見ましょう」

 殺風景な部屋だった。ベッドと小さな机、扉付きの棚だけが置かれたワンルームは生活感の欠片もなく、長らく主が不在だったことを示すかのようにほこりが暮らしている。玄関から見える小さなキッチンの棚には塩と砂糖の容器、最低限の調理道具と食器、パスタ、それから非常食のつもりかクラッカーの箱が一箱置いてあった。

「道中で食べ物と着替えを買ったのって……」

「ここ、あんまり使わないから何もなくって……でも最低限水や電気は通っているから問題なく過ごせますよ」

 ニナは生まれて初めて見る庶民の住居空間であったためか、玄関から先へ入ることをためらっていた。レオーネはそんな彼女に笑いかけた。

「入って大丈夫ですよ、お嬢さん。ボロくて狭い家ですが、ゆっくりくつろいでください」

 それから二人で掃除をしてから簡単な夕食を作って食べた。寝る前になってようやく、彼は今置かれている状況について冷静に彼女に話すことができた。

「ご主人様……つまり、君のお父さんは恐らくもう亡くなっています」

 レオーネの予想に反して、ニナの反応は落ち着いていた。彼が言葉を選び続けていた間に、彼女は最悪の事態を想定して覚悟を決めていたようだった。

「そして俺たちの命も狙われています。昼間の男たちが俺を含めて始末しようとしてたところを見ると俺の生死は問われないらしい。カポはお嬢さんを殺れるなら俺が組織を裏切っていようがいまいが関係なく切り捨てる気です」

「これから私は……私たちはどうなるのですか?」

 ニナは取り乱すこともなくレオーネに尋ねた。

「数日間ここで様子を見ます。その間に信頼できる奴に連絡を取って俺たちの死を偽装させましょう。それが無理なら……最終手段ですがこの国を出ることになります」

 それまでうつむいて聞いていた彼女は顔を上げ、彼を真っ直ぐに見つめた。

「私には……もう帰る場所も、家族もいません。でも、私は今一人にされても生きていくことができません。お願いします、レオーネさん。どうか、一緒にいさせてください」

「顔を上げてください。……あの屋敷とご主人様を守れなかったのは俺の力が足りなかったからです。それでも、お嬢さんのことは必ず守り抜きます。……それに、今お嬢さんがいなくなることが俺にとって一番怖い。お嬢さんこそ、どうかいなくならないでください」

 レオーネの言葉でやっと緊張が解けたのか、ニナは泣き出してしまった。そしてそのまま彼女は眠ってしまった。


 



 翌朝、日の光のまぶしさでニナは目を覚ました。あまりすっきりとした目覚めではなく、夢の中で脳にこびりついて離れない銃声や爆発音に何度もうなされた一夜だった。

「おはようございます、お嬢さん」

 声の主はすでに起きて着替えまで済ませ、キッチンで朝食を用意していた。

「レオーネさん、おはようございます。……あの!」

「どうしました?」

「昨日の夜は、ありがとうございました。ずっと手を握っていてくれましたよね?」

「ああ……お嬢さん、手を離してくれなかったから」

「え、本当に?」

「ごめんなさい、冗談です」

 レオーネはクスクスと笑い、それから心配そうにニナを見つめた。

「……今は、大丈夫ですか?」

「ええ。本当にありがとうございました」

「なら良かった。朝食、食べれますか? といっても、カプチーノと昨日買ったビスケットだけですけど」

 彼の言葉にニナは元気良くうなずいた。

「そうだ、お嬢さん」

「どうしたんですか?」

「この後、知人がここへ来るんですけど、部屋に上げて大丈夫ですか? なんというか……変わった奴なのでお嬢さんが嫌なら外へ出ますけど」

「私は居候いそうろうの身ですし、構いませんけど……どなたがいらっしゃるんですか?」

「ネヴィオという情報屋です。……簡単に言えば守銭奴です。彼が信じるのは神や良心ではなく、金です。むしろ金さえ渡せばどんな仕事もこなしてくれる男ですが」

「失礼だな。俺は金を愛しているし、金のためなら死ねるのは本当だが。レオーネ、お前は俺が金を積めば何でもやると思ってたのか?」

「実際そうだろう? って、お前……どうしてここにいる?」

「えっ!? この人……いつの間に……」

「今日ここに来いって言ったのはお前だろ。だから来てやったじゃねえか」

 いつの間にか会話に混ざっていた男は先の曲がった針金らしきものを二人の前で振り、ニヒヒと小馬鹿にしたように笑っていた。

「だからって……勝手に解錠して部屋に入ってくるな。頼むから呼び鈴を鳴らしてくれ」

「次はそうするよ。……気が向いたらな」

「あのなあ……」

「レオーネさん、こちらの方は……」

 だんだん機嫌の悪くなっていくレオーネの気を見知らぬ男から逸らすためにニナはレオーネに声を掛けた。

「ああ……こいつがさっき説明しようとしてた情報屋のネヴィオです」

「どうも、お嬢ちゃん。俺は情報屋ネヴィオ、よろしくね。レオとは旧い友人。ネヴィオとか情報屋とか、まあ好きに呼んでよ」

「お前とはたった五年の付き合いだろ……」

「では、ネヴィオさんと呼ばせていただきますね。私はニナです。よろしくお願いいたします」

 なれなれしく自己紹介したネヴィオと打って変わったニナの丁寧な挨拶を聞いた瞬間、ネヴィオは吹き出してしまった。

「どうした?」

「いや、お前と嬢ちゃんがしゃべってるの見たときも思ったけど、えらく他人行儀な喋り方すんだなって。二人とも付き合い長いんだろ? 敬語やめて普通に喋れば良いじゃん」

「え……でも、レオーネさんのほうが年上ですし、迷惑掛けてる身でタメ口なんて失礼なんじゃ……」

「俺のほうこそ、昔お嬢さん一家にお世話になっていたんですから、敬語は当然の礼儀です。お嬢さんが気を遣うことはないんですよ」

 互いに遠慮し合う二人を傍で見ていたネヴィオはイライラし始め、終いにはキレだしてしまった。

「もういいから! 二人とも面倒くさい言葉使ってないで、タメで話せ」

「えっ、でも……」

「でもじゃねえよ。レオーネがそんなこと気にする訳ないから。俺にも使わなくていい。レオ、お前もだ」

「お嬢さんが良いなら……」

「いいよな? 嬢ちゃん」

 レオーネに見えないようにニナのほうに振り向いたネヴィオの顔は笑顔でこそあったが、目は全く笑っていない。

「は、はい! 分かりました。……じゃなくて、分かったわ!」

 ネヴィオの迫力に気圧され、勢いだけで返事をしたニナを見て、ネヴィオはようやく本来の人懐っこい笑顔になった。

「そろそろ仕事の依頼をしていいか、ネヴィオ?」

「ああ、大丈夫だ」

 二人が仕事の話を始めた瞬間、ニナは空気が冷たくなるのを感じた。それは、彼女の見たことのないレオーネの一面であった。

「お嬢さんと旦那様……お嬢さんの父親の殺害を依頼した人間と、この件に関するカポ含めた組織の動向を探って欲しい。それから、俺と彼女の死体の偽装と新しい拠点の準備をしてくれ」

「おい、多くないか? 俺は別に便利屋やってる訳じゃねえぞ」

「分かっている。報酬はきっちり支払うさ」

 レオーネの言葉にネヴィオは舌打ちした。

「金のためなら仕方ねえか。……まず、一つ目。嬢ちゃんと嬢ちゃんの親父さんを殺すよう依頼した人物についてはもう調べがついている。二つ目の依頼のカポと組織の動きについてもな」

「早いな」

 レオーネのつぶやきにネヴィオは首をすくめてみせた。

「昨晩、お前から連絡をもらってからお前の周囲で起きたことだけは情報を仕入れといたのさ。カポについては半分別件で手に入れた情報だったけど。いいぜ、お前にくれてやる」

「いいのか? 安易な情報の受け渡しは情報屋の信頼に関わるんじゃないか?」

「お前は金払いがいいからな。それに、お前のことは結構気に入ってるんだよ、俺は」

 ニヤリと笑ったネヴィオに反応せず、レオーネは続きを促した。

「で、まず嬢ちゃんたちの始末を命じた人物。お前の組織のカポだよ」

「は? うそだろ?」

「嘘じゃねえよ。理由は後で話すさ。あともう一つ、カポと組織の動きについてだが……悪い、今は言えない」

「情報をくれるんじゃなかったのか?」

「ああ。だが、今は言えない」

「理由は? 聞いてもいいか?」

カポとお前についての話だ。嬢ちゃんが知っていい内容か、俺には判断がつかん。レオーネ、この話はお前と二人だけでさせてくれ」

「……分かった。外に出よう。お嬢さん、少しこいつと出かけてきます」

 そう言って、二人は出て行った。


  



「……風が強いな」

「ネヴィオ、世間話はいい。ここならちょうどいいだろ。そろそろカポと組織について聞かせてくれ」

 ネヴィオは大げさに肩を竦めると、話し出した。

「お前、母親はもう亡くなったんだよな?」

「は? ああ、そうだが……それがどうした?」

「なら父親は? 会ったことはあるか?」

「いや……顔も名前も知らないな」

「そうだろうな」

 ため息をくネヴィオに対し、レオーネは苛立ったように詰め寄った。

「おい、何が言いたい」

「お前の親父さん、カポなんだよ」

「はっ……?」

 レオーネは言葉をなくしたように立ち尽くした。

「情報源は確かだ。間違いねえよ」

「なら、なんでカポはお嬢さんを殺せなんて命令をしたんだ?」

「親父さんはお前にカポの座を継がせたいからさ。そのために嬢ちゃんが邪魔になると思ったんだろ」

「それ、どういう意味だよ」

「そのまんまさ。あの嬢ちゃんが生きている限り、お前がいつマフィアなんて汚れ仕事から足を洗うか分かったもんじゃないって、そう考えたんだろ」

「そんな理由で?」

「あのおっさんの頭なんてとうの昔に狂ってんだ。……むしろお前があのおっさんらなきゃあの嬢ちゃんは一生狙ねらわれたままだぞ」

 ネヴィオは薄笑いを浮かべながら冗談のようにそう言った。しかし、レオーネの脳裏には、数日前にホテルで会ったときのカポの冷酷な瞳が焼き付いて離れなかった。



  



 ニナが困った顔でレオーネに話しかけたのはその翌日の朝のことだった。

「あの……もう食べるものがなくなっちゃいそうで。どうしましょう?」

 ニナの言葉にレオーネは少し考え、それから言った。

「なら、外の様子見も兼ねて買い物に出ようか」

「……それ、バレないかな?」

 レオーネは棚からメイクポーチを取り出した。

「メイクして雰囲気を変えるっていうのはどう? ほら、ちょっとは変装になるんじゃないかな」

「私、メイク下手だよ?」

「俺がやるから大丈夫。こっちにおいで」

 ニナはおずおずとレオーネの前へやってきて、椅子にぺたりと座った。目を閉じた彼女の前髪を軽くき分けてヘアクリップでそっと止める。

「顔、触れるよ」

「うん……」

 下地、ファンデーションと順番に重ねていき、アイシャドウやチークを塗っていく。最後に真っ赤なリップを小指で取って優しく唇にのせると、まるで遊び好きで派手な女に仕上がった。

「あの、唇……」

 ニナは鏡を見ながら唇にそっと触れた。

「ごめん。ブラシがなかったから。嫌だったよな?」

「ぜんぜんっ! 大丈夫……です。それより! いつもと雰囲気全く違う。レオーネさん、メイク上手ね」

 カタコトになりながらもメイクを褒める彼女のほおは熱を帯びていた。赤いのはチークのせいだけではないだろう。

「気に入ってもらえたなら良かった。仕事で必要だから覚えたけど女性のメイクは初めてだし……見よう見まねでやったから心配だったんだ」

 カチャカチャとメイク道具を片付けていたレオーネは、ポーチの中に赤い小瓶が入っていたことに気がついた。

「ついでにマニキュアも塗ってみる? お嬢さん、マニキュアしたことは?」

「ないかも。やってみたいな」

「分かった」

 ベースコートがなかったのでトップコートで代用し、乾いた指から丁寧に赤を塗っていく。

「きれい……」

 塗り終わった左手を見つめながらニナはつぶやいた。

「まだ乾いてないから触るなよ」

「どれくらい?」

「三日くらい」

「冗談でしょ?」

「冗談だよ」

 彼女は頬を膨らませ、それを見て彼は笑った。それから二人は街へ買い物に出かけた。


「……これで一通りは揃ったと思うけど、あとは欲しいものとかある?」

「うーん」

 ニナは買い物袋の中をのぞき込みながら返事をした。

「うん、大丈夫じゃないかな」

「それならそろそろ帰ろう、か……どうした?」

 レオーネは何かに気を取られた様子のニナに声を掛けた。見ると、彼女の視線の先には骨董こっとういちが広がっている。

「気になるのか?」

「うん……」

「なら、寄っていこう」

 レオーネは変装代わりの帽子を深くかぶり直しながら優しく微笑ほほえんだ。

「えっ……でも、危ないんじゃ……」

「だから、少しだけ。人も多いし、はぐれないようにだけ気をつけよう」

「それなら……」

 そうつぶやいてからニナはためらいがちにレオーネの手を握った。指先を絡めて、目の前に持ち上げる。

「これならはぐれないかなって……ダメ、かな?」

 呆気あっけに取られたレオーネは生返事しかすることができなかった。ニナはうれしそうに笑い、仲良く手をつないだまま骨董こっとういちへと歩き出す。

 ウラングラスにトルコガラスのランプ、陶器のブローチやアンティークレースの付けえり。目を輝かせながら歩いていたニナが足を止めたのはアクセサリーを取り扱った店だった。

「ねえ、これ素敵ね」

「姉ちゃん、良い目をしてるなあ。ま、半分は俺が道楽で作った銀細工やらなんやらだけどな」

 陽気に笑う店主につられ、彼女はますます笑顔になった。

「横の兄ちゃんは恋人か? それなら……コイツはどうだ?お二人さん、名前は?」

「私がニナで、彼はレオーネ」

「ならこれだ。イニシャルが内側に彫ってあるんだ」

「わあ……」

 ニナは宝物を見つけた子どものように指輪を見つめた。

「これ、いくらですか?」

「百万リラ! と言いたいところだけど、そいつも俺が作ったものだしなあ。お前たち、新婚だろ? なら安くしとくよ」

「私たち、新婚じゃないのだけれど……」

「似たようなものだろ?」

 レオーネはいたずらに笑って軽口をたたいた。

「なんだ、訳アリか。さては兄ちゃん、駆け落ちだな! ならペアで一万リラにしよう」

「いいんですか?」

「ああ。材料費ぐらいにはなるし、なにより、骨董市なんてのに売上は求めちゃいねえよ。気にせず持ってきな」

「ありがとうございます!」

 レオーネが金を払う横でニナは早速指輪を左手の薬指にはめ、光にかざしては嬉しそうに眺めていた。

「兄ちゃん、あの嬢ちゃんを大事にしろよ。まあ、見た目は派手だがいい子じゃないか」

 そう言って店主はレオーネの背中をバシバシと叩いた。

「……俺じゃ釣り合わないくらい素敵な人ですよ」

 二人は店主に礼を言い、来た道を戻り始めた。

「よく似合ってますね」

 リングの内側にはイニシャルが彫られているが、シンプルな作りのシルバーはニナの細くて白い指をいっそう引き立てていた。それなのに浮かない顔をしたニナはおずおずとレオーネに尋ねた。

「……私に贈っても良かったの? こういうのは好きな女性にプレゼントするものなんじゃ……」

「だから君に贈ったんだよ」

「それって……!」

 レオーネの言葉にニナが振り向いたそのときだった。

「いっ……てえな!」

 人混みの中でニナとぶつかったガラの悪い男がいた。

「おい、どこ見てやがる!」

「す、すみません」

「ああん? 姉ちゃん、良い女だな……」

 反射的に謝った彼女の顔を見て男は薄笑いをしながら汚い手をニナに伸ばす。

「お嬢さん!」

 そんな男の腕をつかみ、レオーネはお嬢さんを抱き寄せ、男から引き離した。

「てめぇっ……ん? お前は……」

 男に飛びかかったはずみにレオーネは帽子を落としてしまう。あらわになった彼の顔を見て男は驚いたように声を上げた。レオーネの正体に気づいたその男は、つい二日前に屋敷に爆弾を仕掛けたあの男だった。レオーネはすぐに状況を認識して男を足蹴あしげにし、ニナの手を掴んだ。

「行きましょう!」

「おい、待て!」

 背後の怒鳴り声を無視して二人は路地裏へと走り出した。


  



 そして話は冒頭へ戻る。

 雨宿りもできないまま逃げ続けるレオーネにニナは尋ねた。

「これからどうするの?」

「ヴェネツィア行きの列車があるから、まずはヴェネツィアを目指そう。しばらくヴェネツィアで過ごして、それからウィーンに向かう列車に乗るよ」

「どうしていったんヴェネツィアに向かうの? ユーゴスラビアのほうが近いわ。ウィーンに行くにしたって、トリエステにはウィーン行きの列車もあるわよ」

「ユーゴは政変が起こりかけているからな……それならまず隣国のオーストリアに行くと、連中も考えるだろう。近いからね。だからひとまず反対方面へ向かって行方ゆくえをくらまそう。うちは歴史も規模もかなりある組織だけど、その巨大組織がずっとお嬢さん一人を追っていられるほど暇じゃないだろうから。だから、ほとぼりを冷ます意味もある」

 レオーネの説明にニナも納得した様子でうなずいた。そして二人はヴェネツィア行きの切符を買い、列車に乗った。


「ここがヴェネツィア……!」

 列車を降りて、眼前に広がる大運河カナルグランデを眺めながらニナははしゃいだ声を上げた。

「お嬢さん、ヴェネツィアは初めて?」

「ええ。テレビや雑誌で見るたびにいつかはって思ってたの。本当に水の都なのね」

「こんな状況じゃなきゃ観光に行こうって誘うんだけど」

 申し訳なさそうなレオーネに、ニナは笑って言った。

「そんなこと言っていられないのは分かってるから。そう落ち込まないで」

「……いつか一緒にこの街を見て回ろう。逃げる必要もなくなって、堂々と太陽の下を歩けるようになったら」

「ええ。楽しみね」

 それから二人は水上バスヴァポレットを乗り継いでヴェネツィアの中心地から移動し、ネヴィオに用意させていたアパートに身を寄せた。

「すっかり遅い時間になっちゃったわね」

「そうだな。……俺はネヴィオともう一度連絡を取る必要があるから、お嬢さんは先に寝ていてくれ。明日の朝、ネヴィオと合流できるよう話しておくよ」

「分かったわ。レオーネさん、おやすみなさい」

「ああ、おやすみ。良い夢を」

 パタンと玄関の扉を閉め、レオーネは一人呟つぶやいた。

「……さよなら、お嬢さん」


  



「まだあの娘は生きているのか?」

カポ……」

 翌日早朝のことであった。トリエステ中央駅に戻ってきたレオーネの前にはカポの姿があった。

「お前の任務はあの娘を始末することだったはずだ。何をしていた」

 レオーネはカポの質問には答えず、黙って葉巻の煙を吐くいかつい老人を見つめた。

カポ、一つ質問してもいいですか?」

「ああ? なんだ、言ってみろ」

「あなたが俺の父親というのは本当ですか?」

「……本当だ。それがどうした?」

「あなたが俺に組織のまとめ役を継がせようとしているというのも本当ですか?」

 レオーネの声は恐ろしく低く、怒りをはらんでいる。しかし、カポは一切動じることはなかった。

「ああ、そうだ。なんだ、お前は優秀な諜報員ちょうほういんまで手下にしているのか」

 カポは、流石さすがは俺の息子だと満足げにうなずくと、レオーネの肩をたたいて言った。

「あんな野暮やぼったい娘一人に執着するようではまだまだだがな。これから組織はお前のものだ。小娘はさっさと殺してこい。お前なら朝飯前だろ?」

「……ああ、簡単さ。あの屋敷を出てから今日まで、生きるためにそれだけを繰り返してきたんだから」

 レオーネは挑発的に笑い、瞬時に懐から取り出した拳銃をカポの胸に突きつけた。しかし、ほぼ同時に抜き出されたカポの拳銃もレオーネの腹をとらえていた。

「お前にその技術を教えたのは俺だっただろうが」

 互いにニヤリと笑い合うと、素早く引き金を引いた。その表情がそっくりであることを指摘できる者は、周りには誰もおらず、人気のない駅前の広場には二発の銃声だけが響き渡った。音を聞いた組織の男たちが物陰から駆け寄ってきた。カポの護衛として隠れていたのだろう。全員がレオーネに向けて銃を構えている。

 赤く染まった腹部を押さえながら、レオーネは力を振り絞ってもう一発、カポに向けて弾を撃った。あとはニナのもとへ帰るだけである。


  



 目が覚めると、レオーネの姿はなかった。代わりにベッドサイドのデスクには折りたたまれた紙とレオーネのイニシャルが入ったシルバーの指輪が置かれている。骨董こっとういちで彼が買ってくれたペアリングの片割れだ。嫌な予感を振り払いたくて、ニナは紙を開いた。そこにはただ一言、『ニナへ』とだけ書かれていた。

 ニナはどこにいるかも分からないレオーネを追いかけようと急いで玄関の扉を開けた。すると、目の前にはネヴィオの姿があった。

「わっ! 嬢ちゃん、こんな朝早くにどうした? レオは? 俺、あいつに呼び出されたんだけど、もう行ったのか? 早いな。……って、嬢ちゃん泣くなよ! 本当にどうした? 何があった?」

 ニナはネヴィオの顔を見た途端に泣き出してしまった。

「レオーネさんが……! 起きたらもういなくて、おそろいの指輪と手紙だけが残ってて……」

「嬢ちゃん、落ち着けって」

「でもその手紙も私の名前が書いてあるだけで……私、どうしたら……」

「落ち着け!」

 パニックになっていたニナを半ば強制的に黙らせると、ネヴィオは人目を避けるため部屋の中に入った。

「レオーネなら大丈夫だ。あいつはマフィアとして最後の仕事をしにいっただけだ」

「最後の、仕事……?」

「ああ。マフィアの長殺しをしに、な」

「それって……」

 ニナは今にも倒れてしまいそうなほど真っ青になった。

カポが死ねば大規模な後継者争いが起こるだろうし、あいつも嬢ちゃんもどさくさに紛れて逃げられる」

「昨日、ほとぼりを冷ますためにヴェネツィアに行こうって……」

「それはうそだ。あいつがカポから逃げられるはずがないんだ」

「どういうこと?」

「レオーネの父親のこと、知ってるか?」

 ニナはふるふると首を振って答えた。

「彼のお母様はうちで家政婦をしていたけど、お父様は知らないわ」

「だろうな。あいつ自身、知ったのは昨日のことだし。……昨日、組織やカポの動向について嬢ちゃんの前では話せないって言ったこと、覚えてるか?」

 ニナはわずかにうなずいた。

「あいつの親父さん、カポだったんだよ」

「えっ!?」

「嬢ちゃんもあいつも、狙われてるはずなのに本気で致死量の毒盛られたり爆発に巻き込まれたりしてないだろ? 現長カポ次期長カポに自分の息子を据えたいんだから、本気で殺しにくるはずがないんだよな」

「なら、なぜ私は巻き込まれて狙われてたの?」

「そりゃカポからしたら、レオーネが組織のボスになるのに邪魔だからだろ? お前と添い遂げたいからカポにはなりませんとか、あいつ平気で言いそうだし」

「添い遂げ……!? それって……」

 途端に動揺し出したニナを揶揄からかうようにネヴィオは続けた。

「そうだよ。お前ら、とっくに両思いなんだから。さっさとくっつけよな……って、これ言っちゃダメだったやつ? 俺、あいつに殺されたくないから聞かなかったことにしとけよ」

 いたずらに笑ったネヴィオにニナはコクコクとうなずき返した。

「でも、カポのもとに向かうって、それじゃあレオーネさんが危険なんじゃ……」

 再び顔を曇らせたニナに、ネヴィオは静かに語り出した。

「……俺が初めて会った頃のあいつ、危険な仕事ばっかり引き受けてたんだよ」

「えっ?」

 突然語り始めたネヴィオに驚きつつも、ニナは黙って彼の話に耳を傾けることにした。

「なんでそんなに死に急いでるのかと思ったらさ。あいつ、好きな女に見合うだけの力が欲しくてマフィアの世界に入ったんだと」

 ニナは何も言うことができなかった。

「母親が死んで身寄りがなくなったあいつが嬢ちゃんに見合うだけの権力や財力を得ようと思ったら、まず表社会じゃ厳しいからな」

 ネヴィオは吐き捨てるようにそう言い、苦々しい表情を見せたと思うと、コロリと表情を変え、おどけたように笑っていた。

「まあ、一番の理由はカポに声かけられたかららしいけどな。あのカポ、よっぽどレオに組織を継がせたかったらしい。……まあ、だからって訳じゃないけど、あいつなら大丈夫。嬢ちゃんが待ってるんだし、ちゃんとレオは帰ってくるさ」

 ネヴィオはまぶしいほどに笑顔だった。その笑顔が、なによりニナを安心させる理由となった。

「でもあいつ、よっぽど嬢ちゃんのことが好きだったんだな。……そうじゃなきゃ、こんな大それたことやれねえよ」

「それなら、この指輪は……」

 ニナの目から涙があふれた。そしてレオーネが置いていった指輪を自分の指輪と重ね着けてそっとで、顔を上げた。

「待ってても、いいかな?」

「ああ、そうしてやれ」

 窓から朝日が差し込んだ。真新しい朝だ。光は、二つの指輪を照らして輝かせた。


La fine.

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

トリエステの指輪 緋櫻 @NCUbungei

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る