第6話 契約

 夜に自転車で走る。

 この時間は、部活帰りの人はとっくに家に着いているし、塾がある人はすでに目的地にたどり着いて勉強している。

 だから、会う可能性は低いし、万が一同年代がいても、早々に自転車で追い抜いていけばいい。

 水分補給のための飲み物は家から持ってきている。コンビニには立ち寄らない。

 だから、誰かと会う可能性は、限りなく低い。

 久しぶりに息を吸えるようで、とても嬉しい。


「……宿題はどうだった?」

 私はおずおずと、大学ノートを取り出す。

 数学と英語。課題に指定されていた範囲の問題はすべて解いた。

 ぱらぱらとページをめくり、清水先生は私の達成度を確認する。

 その間手持無沙汰で、ついつい部屋の中を見回してしまった。

 私と清水先生は机を挟み、向かい合って座っている。離れた場所に麻子先生が座って一人静かにハードカバーの本を読んでいる。

 部屋の中に大きな変更点はない。

 壁には固定電話がひっかけられていて、受話器はぐるぐるとしたコードでつながっている。『壊れて使えない』と木綿子先生が言っていた子機は、本棚の隅にオブジェとして置かれたままだ。

 今時珍しい、真ん中から紐が垂れ下がった、電気傘のある蛍光灯が、レトロな雰囲気を醸し出している。

 この空間だけ少し前の時代に残されている気がしている。

 それがとても、安心する。

 ――清水先生が指導をする新生『名前のない塾』は、木綿子先生時代の運用を踏襲していた。

 塾は平日、週二回。大手塾にあるような、入退室を知らせるカード類はなし。月謝は茶色の月謝袋に入れて手渡し。決められた日に来れない場合は、電話連絡をする。

『清水先生は現役の大学生だから』、という理由で、窓口は麻子先生になった。

 本来は私の母親とやりとりをするのだろうけれど、『あんたがやったほうが話が早いから』という理由で、母は連絡窓口を早々に私に指定した。

 人によっては、時代に追い付いていないと思うのだろうか。

 でも、これくらいのアナログさ、スピード感が、私には合っている。

「……うん、結構できてるね」

 清水先生の口角があがる。

 私も真似をするかのように、口元が勝手に緩むのを感じた。

「ありがとう、ございます」

 たどたどしくはあるけれど、自分の気持ちを声に出して伝えられる。

「わからないところや、難しいなと思うところ、あった?」

 私はピンクの蛍光ペンでチェックしたところを指さした。

「ピンクのマーカーのところがわかりにくかったところ、苦手だと思った部分だったね。……じゃあ、ここから一緒にやってみようか」

 清水先生がホワイトボードを取り出し、解説のためにペンを動かしていく。

 私はそれを目で追っていた。

 ――挨拶、簡単な定型文は、清水先生相手に話すことができるようになった。これはきっと、大きな進歩だ。

 けれど、複雑な会話になると、うまく言葉にできない。

 けれど伝えたいことはあるので、分からない問題や要望事項などは、事前に紙に書いて渡すことにしている。

 こういった個別塾でなければ、受け入れてもらえなかっただろう。

 だから清水先生が教えると申し出てくれたことに、私はとても感謝している。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る