第5話 名前のない塾
清水さんは、私の目をゆっくりと見据えた。
責めるでもない、憐れむでもない。
けれど嫌な気持ちにはならない。
だから視線を受け止めた。
数秒見つめあうと、清水さんの顔立ちが、整っていることに気が付いた。
――静寂を破ったのは、清水さんだった。
「僕でよければ、指導します」
目をぱちくりさせる。
助けを求めるように見ると、麻子先生もわずかに感情を揺らめかせていた。
「僕は今日、事前情報なしで森川さんと会いました。だから、これは個人的な推測ですが」
ためらうかのように、そこで言葉が区切られる。
「言わないと分からないわよ」
麻子先生は言葉とともに、清水さんの肩を叩く。
意を決したように、清水さんは口を開いた。
「途中から授業を受けず、自分でワークを解いて勉強していましたか?」
清水さんなりの配慮した表現なのだろう。
けれど意味するところは分かった。
『学校に通っていないか、保健室登校などで授業を受けてない状態で、ワークを解いたのか』と聞かれている。
私はゆっくりとうなずいた。
見る人が見れば、わかってしまうのだ。
私の英語の教科書は、初めのほうだけ、指示された箇所にマーカーが引いているが、あとは書き込みなしの状態が続いている。
通学カバンに入れて持ち運んでいないため、表紙もきれいだ。
数学のワークに至っては、授業を受けていたところと受けずに解いたところで、正答率がかなり変わっている。後の方に行くほど赤だらけだ。
清水さんは一瞬顔を伏せた。
その後顔をあげて私を見た時には、すでに感情は読めなくなっていた。
「……言いたくないことは言わなくていいです。ただ、さっきみたいに、はいかいいえを首を振って答えてもらえると助かります。――僕の個人的な推測と、考えを続けます」
清水さんは息を吸う。
「少なくとも、どこにも外に出ず、家に閉じこもる生活を続けるのは、よくないと思います。……森川さんは、現状を変えたいと、思いますか?」
ゆっくりと、うなずいた。
変えられるものなら変えたい。けれどやり方がわからない。
「もし、もう相談先があって誰か頼れる人がいたり、現状を変えるためのアイデアがあったり、すでに動いているなら、僕の提案は無視してください。でも、行き先がないのなら。木綿子さんではないけれど、名前のない塾に来てみませんか」
まるで真っ暗闇に降りてきた、一本の蜘蛛の糸のようだ。
か細いけれど、確かな希望。
「大手の塾みたいに、充実した指導ができるとは言えません。木綿子さんの教え方より上手いと豪語することもできません。なんなら、教え方に物足りなさを感じるかもしれない。けれど、森川さんが外に出て、勉強して、未来をつかみ取るための手伝いをさせてほしい」
いつの間にか、泣いていた。
私の目から、涙が一粒頬に流れ落ちた。
麻子先生が黙って箱ティッシュを持ってきて、一枚抜いて、渡してくれた。
「今日頑張って来てくれたから、この時間なら、外に出れる。これは大きな一歩だから。この習慣を、一緒につくってみませんか」
ティッシュでぬぐう前に、大粒の涙が落ちて、服にちいさな染みをつくる。
一人だと思っていた。
手を差し出してくれる人なんていないと思っていた。
けれど出会っていなかっただけで。
私を助けてくれる人はここにいた。
「……よろしく、お願いします」
かすれた小さな声は、間違いなく、清水さんに向けたものだった。
麻子先生には話せて、清水さんとは言葉を交わさなかった。できなかった。
だから自然に言葉が出たことに、驚いている。私自身も。
そして恐らく、気付いていながら触れなかった清水さんも。
私は声をあげて泣いた。
初対面の年の近い人と、会話でコミュニケーションをとれたことに、びっくりして、安心して。できなくなっていたことがこの一瞬でもできるようになって、感情が決壊した。
きっとそれだけではなく。優しくされたから。私を受け入れてくれる場所があることに安堵したから、人前で、みっともないくらい、小さな子供のように泣いたのだ。
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