闇に潜むもの

 沈黙の広間には、しんとした冷気が満ちていた。エミリの手にある松明がかすかに揺れ、その明かりに反応するように、壁に刻まれた線刻が浮かび上がる。無数の線は意味を成しているようにも、ただの傷跡にも見えた。


 オルサは立ち上がり、静かに剣の柄に手を伸ばした。その動作に、エミリがわずかに肩を震わせる。


「どうしたの、兄さん……?」


「静かに」


 息を潜めて耳を澄ますと、広間の奥――暗闇のさらに先から、わずかに何かがこすれる音が聞こえた。肉が地を這うような音。鈍い、湿った音。


 エミリはオルサの背に身を寄せた。兄は鞘から剣を抜く。


「来るぞ。気を抜くな」


「来るって何が……──」


「ギィィィ!!」黄色く濁った目。薄汚れた皮膚。牙をむき出しにし、短剣のような粗末な刃物を振りかざして飛びかかってきた。


「クソっ、ゴブリンだ!」


 オルサの叫びと共に、鋭い金属音が広間に響いた。振り下ろされた剣が、ゴブリンの刃と交錯する。火花が散り、ゴブリンの目がギラリと光る。


 オルサは刃を押し返し、斬り返す。ゴブリンは悲鳴を上げて後ずさり、やがてそのまま崩れ落ちた。


 倒れたゴブリンの背後から、さらに複数の気配が現れた。暗闇の向こうで黄色い目が幾つも瞬き、キィキィという耳障りな鳴き声が、じわじわと広間を包み込んでいく。


 オルサは剣を握り直した。


「数が……多い。六、いや七はいるかもしれん」


「……後ろにもいるわ」


 エミリは兄と背中を合わせた。手にした松明を高く掲げ、その火を睨みつけるようにして迫る影に向ける。鼻を刺すような獣の匂い、血と鉄が混じったような、ぬるりとした腐臭が二人を包みはじめた。


 ガギンッ!


 再び金属音が鳴る。飛びかかってきたゴブリンの剣撃をオルサが剣で防ぐ。

 仲間の攻撃に合わせて突進してきたゴブリン。それをエミリは松明で突いた。ゴブリンはたちまち火だらけになり、悲鳴を上げて転げ回る。


「効く……彼ら火に弱い!」


「よし、そのまま下がるぞ!」


 二人は広間の中を後退しながら応戦した。オルサの剣が一閃ごとに唸り、エミリの松明が暗闇を裂くたび、火の粉と血しぶきが飛び散った。だが、それでもゴブリンの数は減らず、暗がりの向こうから次々と現れる。


 二人はゴブリンを相手にしながらゆっくりと退き、やがて石造りの柱が密集する一角にたどり着いた。柱が半ば崩れ、狭い三角形の隙間を作っていた。人ひとりがようやく通れるかどうかの幅だった。


「ここだ! エミリ、入れ!」


「に、兄さんは?」


「すぐに行く! はやく入れ!」


 エミリは反論せず、すぐに身を滑り込ませた。松明の火が柱の隙間を照らし、囲まれた空間がかろうじて視認できる程度の広さを持っているとわかった。土と石とがまじった床、そして苔に覆われた壁。


 オルサは隙間から滑り込み、エミリは兄を追ってきたゴブリンを松明で火だるまにする。


 仲間の悶え苦しむ様子にゴブリン共は唸り声をあげ、ゴブリンの体を包み込む炎が隙間を埋めた。 


 柱の隙間を抜けた先は、文字通りの袋小路だった。


 空間はせいぜい三畳ほど。崩れた石材と苔の匂いが強く、空気は淀んでいた。壁にはところどころ古びた彫刻の痕跡が残っていたが、それを照らす松明の火はすでに弱まり始めている。


 オルサは背後の柱に背を預け、深く息をついた。荒くなった呼吸に混じって、外からまだくぐもった唸り声と足音が聞こえる。どうやらゴブリンたちは柱の隙間から先へは入ってこられないようだった。空間が狭すぎるのだ。


 だが、それが安心につながるわけではない。袋小路に追い詰められた状況に変わりはなく、松明の灯りが尽きれば、視界も戦意も一気に削がれる。


「ケガは?」


 壁に背をつけて座るエミリの隣にオルサは腰掛ける。


「大丈夫。兄さんは?」


「無事だ」


「そう」


 しばしの沈黙。エミリは静かに体を寄せ、オルサの肩にそっと頭を預けた。


 松明の火が微かに揺れ、影が二人の顔に複雑な模様を刻む。彫刻の浮き彫りがまるで何かの儀式を見下ろしているように、天井の低い空間を不気味に包み込んでいた。


 二人の間に言葉はなかった。場を支配していたのは不気味な風の音と、ゴブリン達の鳴き声だけだった。





 


「アレウスにニリア! 良く来たな」


 黒鉄のプレートアーマーを着込んだ逞しい剣士、アレウス。緑灰の軽装をまとい、背中に折り畳み式のクロスボウを担いだ女戦士ニリア。懐かしい顔ぶれが支部にやってくると、オークは嬉しそうに二人に駆け寄った。


 ノクシア支部のギルドホールはまだ朝の冷たい空気を残していたが、オークの声だけはいつも通り太陽のように明るい。


 アレウスは苦笑しながら友の背中に手を回し、ニリアも微笑んで抱擁した。

 オークは腕を組みながらニヤついた顔でアレウスを見やり、次いでニリアに視線を移す。


「お前さん達、今も夜な夜な交わってるのか?」


「当然でしょ。私達結婚したのよ?」


 ニリアはあっけらかんと笑って答えた。腰に手を当て、胸を張るようにして。


「へへっ、そうだったな」


「まったく」アレウスは苦笑した。「ウルバグ。お前のそういう下品なところ、昔から変わらんな」


「変わったら、彼じゃないでしょ」


「へへ、そういうこった」ウルバグはゲラゲラと笑った。「ところで、お前達が顔を見せてくれるなんて珍しいじゃないか? 一体どうしたんだい?」


「別に深い意味はないのよ。本部の任務のついでに寄っただけ」


「帝都から僧侶を護衛する途中でね。無事に送り届けたから、お前に会いに来たんだ。どうだ“支部長”さん。上手くやれてるか?」


「てんで駄目だ」と、ウルバグは言った。「マトモなのが入ってこないせいで、問題続きだ。ここは肥溜めだよ。先日も田舎者の男女を入れたところだ」


「男女?」アレウスが言った。


「ああ、兄妹だよ。パンドリナ・ヘレナンテの依頼を与えてやった。常連のな。へへ、そしたらアイツら──」


「待って。パンドリナ・ヘレナンテ?」


 ニリアの声が急に冷たくなった。


 ウルバグの表情が一瞬だけ引きつる。


「まさか……あの問題客の依頼を、新人に任せたってわけ? 私達が前にどんな仕打ちを受けたか忘れたの?」


 冗談めいた調子だったニリアの口調からは、もはや笑みの欠片も消えていた。


 ウルバグは肩をすくめて答えた。


「確かに、あいつはちょっと変わってる。だがな、依頼そのものは真面目だったんだ。犬の捜索だ。危険なんて何もない」


「それでも、あの女が絡む時点で碌なことにならない」ニリアは低く言った。「……新人達はどこに行ったの?」







 時間は、重く、粘りつくように過ぎていった。淀んだ空気は、呼吸のたびに肺の奥をじわじわと蝕むようだった。松明の火はとうに芯を燃やし尽くし、今やその先端にまとわりつく火の粉が、かろうじて橙色の残滓を灯しているのみだった。


 ゴブリンたちの気配はまだ消えていなかった。袋小路の外、崩れた柱の隙間の向こう──彼らは確かにいる。鼻を鳴らし、爪を研ぎ、炎の鎮火を待っている。


 奴らは狩るためなら、飢えも退屈も耐える。闇の中で身をひそめ、獲物が動くその一瞬を、じっと待ち続ける。


 どれ程の時間が経っただろう。


 突然、足音が響いた。広間の方角からだ。そして鋭い叫び声が響く。ゴブリンのものだ。


 遠くで揺らめく松明の明かり。それに照らされる人影とゴブリンの姿。ゴブリンはバタバタと倒れ、人影はこちらに近づいてくる。


 鋼鉄がぶつかる音と獣の悲鳴が辺りに響く。


「アレウス、うしろ!」


 女の声。落ち着きつつも力強い。


「十二、十三!」


 男の声。ハッキリとしている。


 人影は一組の男女だった。クロスボウにボルトを装填する女戦士。黒い鎧に身を包み、ゴブリンの首を跳ね飛ばす剣士。

 

 鋭い金属音がこだまし、次の瞬間には一体のゴブリンが喉を裂かれて沈んでいく。血が床に弧を描き、岩肌を染めた。


 それを追うように、クロスボウの音がひとつ。硬い音が広間に響き、ボルトが飛ぶ。命中したのは、跳びかかろうとしていた別のゴブリンの眼窩だった。悲鳴もあげられぬまま、その小さな体は背後に倒れた。


 女は素早く次のボルトを装填し、前方を睨んだ。その目には、恐れよりもむしろ冷静な計算が宿っている。


 やがて、広間の一角でごそごそと音がし、それに続いて小さなうなり声が重なった。岩陰から再び現れたゴブリンの一団。だが、彼らの動きはもう初撃のような勢いを持ってはいなかった。


 剣で斬られ、ボルトに射抜かれるゴブリン。仲間が殺されると、ゴブリン達は暗闇へと逃げていく。


 逃げ去る足音が遠ざかり、広間に静けさが戻る。


 床に転がる死体の数は十を超えていた。黒ずんだ血が石畳を汚し、空気には鉄の匂いが漂っている。だが、もはやそこに殺気はなかった。


 ただ、戦いの残骸だけが残されていた。


 

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大陸冒険記 夢を求めて  モドキ @modoki-modoki

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