遺跡

 朝になっても、タミナは部屋から出てこなかった。


 階上の一室からは、物音ひとつ聞こえてこない。ベンデルが何度か声をかけたが、返事はない。薬屋の主は姪に代わって「悪かったな」とオルサとエミリに謝罪し、二人もそれを受け入れた。


 薬屋の扉を開けると、外の空気は冷たく澄んでいた。昨夜の混濁と熱を孕んだノクシアの夜が嘘のように、朝の町は落ち着いていた。だが、路地の隅にはまだ焚き火の痕跡が残り、炭の中に指を突っ込んで暖を取る子供たちの姿もある。


 町の空気に流れるのは、眠気と諦め、そして微かに残る緊張だった。


 昨夜の出来事をギルドに報告しにいったが、ギルドは事を大事にしたくないようだった。というよりも、彼らは事件とすら思っていなかった。オークは朝帰りのオルサを見て「やったな、色男」とおちょくったし、二人が依頼人の手癖の悪さを話すと大爆笑した。


「俺なら妹なんてほっといて、御婦人と朝まで過ごしたね」と、オークは言った。その後に続いた彼の言葉はエミリの顔を真っ赤にさせるほどに卑猥で、オルサが眉をひそめるほど下品であった。


 ギルドを出ると、背中に纏わりついていた湿った笑い声が、ようやく遠ざかった。


 二人は軽く息をつき、微かに笑みを浮かべあった。気まずい雰囲気が二人の口数を少なくさせた。あのオークの下品な話のせいだ。まるで一緒に観ていた芝居で官能的な場面が始まり、目を逸らして黙り込んだ時のような気まずさが二人のあいだに流れていた。


 二人は町を出て、犬がいなくなったという遺跡に向かった。


 町の門を抜けると、空気はさらに澄んだ。ノクシアの街路に漂っていた人間の暮らしの匂い――煤、古布、干し肉、そして安酒の臭いはすっかり遠ざかり、今はただ、土と風の匂いだけが鼻を満たしていた。


 未舗装の街道には昨夜の雨が残したぬかるみが点在しており、踏みしめるたびに靴底が泥を吸った。


 遺跡までは町から小一時間ほどの距離だった。遺跡と言っても、白い石柱が野原に点在しているだけで、めぼしいものは何もなかった。通りかかった地元民が「ここが遺跡さ」と教えてくれなければ、オルサとエミリは遺跡を危うく見逃すところだった。


「何もないな……」


「兄さん、来て」


 散らばって手がかりを探していた時、エミリがオルサを呼んだ。


 石柱のひとつ、半ば倒れかけた根元。エミリはそこに立ち、駆け寄ってきたオルサに笑みを浮かべて「洞穴があるわ」と指さした。


 エミリが指差していたのは岩場に隠れた洞穴だった。暗闇の中を白い石の階段が永遠と続いている。


 オルサは目を細めて、暗い階段の奥を覗き込んだ。外の光が届くのは最初の数段までで、それより下は完全な闇に沈んでいる。まるで、別の世界に繋がっているかのようだった。


「おい! ワンコロ!」オルサは暗闇に向かって叫ぶと、エミリの方に顔を向けた。「犬の名前なんだっけ?」


「シルビオ」


「シルビオ! シルビオくん!」


「……くん? メスかもしれないわよ?」


「よせよ。シルビオだぞ? オスに決まってる」オルサはそう言うと、再び叫んだ。「“シルビー”君!  返事しろ、そこにいるなら吠えろ!」


 だが、闇の底からは何の音もしなかった。静寂が広がるばかりで、まるで階段の下にあるのは、音さえも飲み込む深淵だった。


「ワン! ワオーン! ワン!」


 後ろから声がした。その声はエミリだった。


「ふっ、急にどうした?」


「いや、犬の鳴き声なら反応するかなと思って……」


 エミリは頬を少し赤らめ、微笑する。


「だからって急にやるなよ」オルサは苦笑いを浮かべた。「心臓に悪い」


「ごめん」エミリは照れ隠しに肩をすくめた。「兄さんもやってみたら? 狼のマネうまいでしょ?」


「長い事やってないけどな」と、オルサは咳払いする。「いくぞ──アオオーン!!」


 オルサは遠吠えすると、耳を洞穴に向けた。何も返ってこない。


「駄目みたいね」


「そうだな……やっぱり中に入るしかないか。松明は持ってきたな?」


「ええ、ちゃんと持ってきた」


 エミリは背負っていた小さな袋を降ろし、中から松明と火打ち石を取り出した。


 シュッ、シュッと火打ち石を何度か擦り、乾いた音のあとに火花が散る。布に巻かれた獣脂が音を立てて燃え上がり、橙色の火が洞窟の闇を裂いた。


「いくぞ」


 オルサは松明を掲げ、階段を一歩ずつ下りはじめた。エミリも後に続く。


 降りるにつれて、外の光は薄れ、やがて完全に消えた。頼れるのは松明が放つ明かりだけ。暖かな炎がエミリとオルサの周りを照らす。


「どこまで続いてるんだ……」終わることがない階段にオルサは呟いた。「エミリ、松明の予備は何本ある?」


「四本。野宿用の小さなランタンもあるわ」


「了解。それじゃ、ランタンを灯して階段に置いてくれ。真っ暗闇の中、目印なしに階段を登るのは避けたいからな」


「分かったわ」


 エミリは立ち止まり、ランタンの竜脂に松明の火を移した。暖色に燃え上がる脂。範囲は狭いが、力強い明かりがランタンに灯る。


「数刻は大丈夫だな。とりあえず二本松明を使ったら地上に一旦戻るぞ」


「ええ」


 エミリはうなずくと、もう一度袋を背負った。オルサはその様子を一瞥して、また階段を降り始める。


 二人の足音と、松明がぱちぱちと燃える音。あまりに静かだったので、エミリは鼻歌を歌い始めた。しばらくすると、オルサもそれに加わり、二人の鼻歌が静かな空間に響いた。


 二曲目の途中で鼻歌は自然と途切れた。それは階段の終わりが見えたからだった。


 暗闇の先、ぼんやりとした広がり。松明の炎が映し出したのは、粗い石造りの床だった。二人は最後の段を降り、広間のような空間に足を踏み入れる。天井は高く、四方を囲む壁には無数の傷跡のような線刻が走っていた。


「広い……まさか、こんな場所が地下にあるなんて」


 エミリが周囲を見渡しながら呟く。松明の明かりが届く範囲は限られていたが、それでもこの空間が人の手によって作られたものであるのは明らかだった。


 エミリとオルサは視覚と聴覚を研ぎ澄ませながら前を進む。


 石の床に置かれた白い物体。しばらく進むと、二人は何かを見つけた。二人は目を見交わし、黙ってそれに近づいた。


 松明を高く掲げ、ゆっくりと歩く。


 そして二人はその白い物体の前で立ち止まった。


 それは、骨だった。おそらくは小動物のものだろう。乾ききった肋骨と、砕けた頭蓋骨が散らばっている。肉らしきものも骨にくっついている。


「……もしかしてシルビオ?」


 エミリがぽつりと呟く。


「わからん」


 オルサはしゃがみ込み、骨の周囲に目を凝らした。石床には細かい擦れた跡があり、血のような赤黒い染みもかすかに残っている。


「だが、最近ここで何かが起きたのは確かだ」


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