第一章 冒険ギルド
門前払い
帝国軍第四軍団の野営地は、属州カラデムとランヌ王国の境に位置していた。丸太で作られた壁の中からは兵士たちの怒号と荷車の軋む音が漏れてくる。土と煙の匂いが野営地の外まで漂っていた。夏の終わりの空はどこまでも曇天で、曖昧な陽光が地表を鈍く照らしていた。
その野営地の門前に、二人の若者が立っていた。
一人はオルサ・ヘラディス。帝国西部の辺境クレノスの出身。背は高め、粗末だが手入れの行き届いた旅装の上に、無骨な革の肩掛けをつけている。短く整えられた金髪と髭、はっきりとした目鼻。腰には一本の長剣。彼はそこそこのルックスの持ち主だった。田舎娘を振り向かせる程度には。
そんな彼の隣には妹がいた。
エミリ・へラディス。ブロンドの長い髪に端正な顔立ち。明るい笑顔。厚手の布で仕立てた簡素な上着と膝丈のブーツを身につけ、その腰には短剣と革の水筒が提げられていた。旅装もブーツもすでに泥で汚れていたが、彼女の姿勢には決してくたびれた様子はなかった。
二人は共に野を越え、ここにやってきた。
小さき頃から抱いてきた夢を叶えるために。
「なんのようだ」
門を警備していた見張りの一人がオルサとエミリに声を掛ける。
オルサはゴホンと咳払いした。
「帝国軍に志願しにきました! 入隊を希望します!」
その言葉に、見張りたちは互いに目を合わせた。
「また狼になりたい羊がやってきた」そう二人は笑い、少しの間を置いて、一人がオルサに答える。「ならば門をくぐれ。徴募詰所は中央天幕の隣だ。……ただし、今の時期行くだけ無駄だと思うぞ」
「ありがとうございます」
オルサは頷き、エミリと共に門を通り抜ける。
「ちょっと張り切りすぎたかな?」
「ふっ、そんな事ないわ、兄さん。良くできてた」
ぬかるんだ地面には無数の足跡と轍が交差し、ところどころに溜まった水たまりが靴の裏を重たくする。天幕と天幕のあいだを行き交う兵たちは男も女も忙しなく、足音と武具の金属音が、野営地全体に鈍い重みをもたらしていた。
誰かが怒鳴る声と、鉄がぶつかり合う音が辺りに響いている。どこかで鍛錬が行われているのだろう。
「……すごいわね」
エミリがぽつりと呟く。その目は人影の奥を探るように揺れていた。
「緊張してきたぜ」
「私も……引き返す?」
「ここまで来てか? 嫌だね」
エミリは苦笑し、兄の横顔を見た。強がってはいるが、その拳は無意識のうちに固く握られていた。彼女もまた、自分の呼吸が少し速くなっているのを感じていた。
「あの二人どこかな?」
「さぁな。入隊してから探せばいい」
二人は中央天幕へ向かって歩を進める。やがて、一張りの大きな天幕が現れた。帝国の軍旗がその上に掲げられ、入口には衛兵が立っていた。
オルサが近づくと、衛兵は鋭い目で二人を見据えた。
「志願しに来たんですが……」
衛兵は無言で顎をしゃくり、天幕の中を指し示した。
天幕の中は外よりも幾分静かで、重苦しい空気が充満していた。並べられた粗末な木机の奥では、書類に目を通す男たちの姿がある。そのうちの一人の兵士がオルサたちに気づいて無愛想な顔を上げた。
「何しに来た?」
「志願しに来ました。名前はオルサ・テラディス」
「同じく、エミリ・テラディス。彼の妹です」
オルサとエミリは帝国市民権を証明する書類を机に置いた。
「ふん」男は書類には目もくれず、二人を見つめた。「冒険ギルドからの推薦状は?」
「……ありません」
オルサはエミリと顔を見合わせた後、そう答えた。
「では都市国家や同盟国の軍隊での軍務経験は?」
「それもないです」
「……つまり軍隊経験も推薦状もないってことか」
兵士は鼻を鳴らし、机の上に肘をついた。
「ないってことです……」オルサが言った。「だ、だけど、やる気はありますよ」
「そんなの何の役にも立たん。帝国は今どことも戦争していないし、今の軍はほぼ定員で埋まってる。定数以上に雇い入れるとなると、それなりの“理由”と“経験”が必要だ。つまり、お前たちみたいな“志願してきたから入れてくれ”ってだけの若造は、門前払いってわけだ。戦績も推薦も実績も無し。都市の衛兵にすら雇われた形跡がない。それじゃ話にならん」
オルサが口を開こうとするより早く、男は無情に言い放った。
「志願はありがたいが、帝国軍は遊びじゃない……今は、ただの思いつきで兵士になれる時代じゃないんだよ」
「……それじゃあ」エミリが絞り出すように言った。「私たちには、可能性すらないってことですか?」
「“今は”な。外で経験を積んだり、冒険者として名を上げてから戻ってこい。何も持たずに来て門を叩いても、中には入れんよ」
「中には入れましたよ」
オルサの返しに男はギロッと彼を見る。
「……すいません」
「だけど、私達……」エミリが訴える。「ここの軍団に知り合いがいて、彼らに憧れて軍に入りたいんです」
「知り合い? 名前は?」
「分かりません」兄妹は同時に口にした。
「だけど、百人隊長と治療師なのは確かです」
「へぇ、どこの大隊のどの百人隊だ?」
オルサはエミリと顔を見合わせる。「……分かりません」しょんぼりと肩を竦めるしかなかった。
「名前も部隊も分からないけど、知り合いか……すばらしい」と、兵士はため息をついた。「まぁ、名前が分かったところで入隊はできんがな。コネ入隊を狙うなら将軍と仲良くなっとくべきだったな」
兵士の笑い声。
オルサは目を閉じた。悔しさがこみ上げる。
「……ありがとうございました」
二人は天幕を出た。先ほどまでいた野営地の喧騒は、なぜか遠くなったように感じられた。
「どうする?」
エミリが聞いた。風が彼女の髪を靡かせる。
「何かしないとな。実績を積む。……とにかく、力がいる」
「ならやっぱり、冒険ギルドかしら?」
「そうだな。巣からドラゴンの卵でも持ってくれば直ぐに有名になれるだろう。有名になったら、ここに戻ってくればいい」
エミリはクスリと笑った。
辺境の風が野営地の柵をかすかに鳴らしていた。背後では、依然として怒号と金属音が響いている。
オルサとエミリは門を背にして歩き出す。靴にまとわりついた泥が、重たく足を引きずる。
それでもオルサは、まるで未来の地図を広げるように、進むべき方向を迷いなく示した。
「……手始めにノクシアに行こう」
「ノクシア? あの、酒と女と寝ぼけた吟遊詩人の吹き溜まり? 兄さん、まさか本気?」
「本気だよ。あそこには確か冒険ギルドの支部がある」
「……だからってあんなところじゃなくたって」
エミリが呟くように言うと、オルサは肩をすくめて答えた。
「他の街へ回る余裕がないんだ。ノクシアはここから一番近い。それに……手持ちの旅費じゃ、せいぜいそこが限界だろ」
エミリはため息をつき、指で腰の袋を軽く叩いてみた。中で硬貨が数枚、寂しげに揺れる。
「……たしかに、宿も一泊がやっとね。ご飯もパンと水だけになりそう」
「ギルドに登録して、できる仕事を片っ端から片付けよう。それしか道はない。俺達が有名になったら、あの門番も無愛想な兵士も見直してくれるさ」
曇り空の下、ふたりの影は地面に長く伸びていた。風が草を揺らし、柵の向こうに広がる野営地の音が、次第に遠ざかっていく。怒号も、鉄の響きも、まるで別世界の出来事のようだった。
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