第4話

教員室の隅。

数学教師の**仁科 敬(にしな・けい)**は、黙って野原千晶の出席簿を見つめていた。


「170cmで、運動能力が高く、たまに見せる寂しげな表情……あれは、守ってやりたくなる目だ」


仁科は30代前半。教員歴は5年。

普段は温和で、授業も丁寧と評判だ。だが、心の奥に、自分でも気づかぬ“歪み”があった。


最初は、父親のような視線だった。

だが、それは少しずつ変質していく。


千晶がソフトテニスの練習で泥まみれになった足を拭く姿。

廊下で自販機の前に立ち、姉の話をしている横顔。

何気ない仕草が、彼の内に、理性をかき乱す。


「――これは、まずい」


わかっていた。

教師として、いや大人として、絶対に越えてはならない一線。

だが、“彼女のため”なら許されるのではないか――そんな幻想が、影のように心を包む。


その夜。

仁科は、誰もいない学校の資料室で、ひとり、千晶の生活指導記録を読み返していた。


「母親が酒に溺れ、父は不在、家庭に安らぎがない……それなら、俺が」


そのとき――資料室の扉が、音もなく開いた。


「お主、心に刃を向けておるな」


そこに立っていたのは、一本足で静かに立つ、着流しの男。


「……なんだ、あんた。用務員か? いや……あの、噂の変な“武士”か」


「拙者、宮本武蔵。闇を斬る者なり」


「……冗談じゃない。俺は、生徒に……彼女に何もしていない。ただ……ただ、心配してるだけだ」


「では問う。もし、己が“教師”でなかったら。お主は、彼女に何を求めておった?」


その言葉に、仁科の目が揺れる。


「ちがう……ちがう……!」


武蔵は、そっと木刀を構えた。


「闇は、自らに嘘をつく者に忍び寄る。欲を自覚せぬ者こそが、最も危うい」


仁科の背後に、黒い煙のような“影”が立ち上る。

それは、人としての境界を壊そうとする“欲”の化身だった。


「やめろ……俺は、教師だ……」


「ならば、己の中の“業”を、拙者に見せよ――斬る!」


武蔵の木刀が、空気を裂いた。


一瞬、仁科の意識が白く飛ぶ。


気づけば、彼は教員室の自分の机に突っ伏していた。


日直の生徒が「先生、帰らないんですか」と声をかける。


仁科は、重く息を吐いた。


「……いや、すまない。今すぐ帰る」


彼はそっと、野原千晶の記録を閉じ、ロッカーの奥にしまった。

もう、二度と開かぬように。


次の日、千晶が何気なく仁科に声をかけた。


「先生、昨日はなんか……顔色悪かったですね」


「ああ……うん、ちょっとな。でも、もう大丈夫だ。ありがとう、気にかけてくれて」


千晶は軽く首をかしげたが、特に何も言わず、秋山のもとへ駆けていった。


その背中を見送る仁科の顔に、静かな決意が宿っていた。


――もう二度と、心の中に闇を飼わない。


屋上にて。


武蔵は、ただ空を見上げていた。


「人の心に潜む闇。強き者も、優しき者も、飲み込まれる。されど、気づき、踏みとどまる者こそ――誠の“強者”なり」


彼の木刀は、今日も抜かれることなく、風の中に立っていた。

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