第3話

「おい“アイツ”、また女子の制服着てるで」


「キモッ。なんで来るの? 男子のくせに」


片山中学校の昇降口。

放課後、ざわつく声の中心には、セーラー服を着たひとりの生徒が立っていた。


名前は――高梨 いおり。

戸籍上は「男子」だが、自分を「女の子」として認識している。

数少ない理解者である担任と、親友の女子生徒だけが、彼女のことを本名で呼び、彼女自身を「彼女」として見ていた。


だが、クラスの多くは、彼女を“存在してはいけないもの”のように扱った。


今日も、ロッカーに入れていた体操服が切り裂かれていた。


「……また、か」


ポケットからスマホを出して、証拠の写真を撮る。それだけが、彼女の自衛だった。


校庭の隅。一本足で正座する男が、いおりを見つめていた。


「……あなた、変な格好してますけど、あたしのことも笑うんですか?」


「否」


男は立ち上がる。


「お主の心に、深き傷を見た。名を問う」


「高梨いおり。中2。……男に生まれたけど、女として生きてます」


「うむ。“名”は人を形づくる。されど、名は他人に決められるものではない」


その言葉に、いおりの目が揺れる。


「……誰にも、ちゃんと呼んでもらえない。“いおり”って、名前はあっても、呼ばれるたび、バカにされてる気がする」


「ならば、拙者が呼ぼう。“いおり”。これは、誇り高き名じゃ」


その瞬間、空気が震えた。


どこかで、闇が軋む音がした。


次の日、いおりの机にまた落書きがされていた。


「キモ女装野郎」


クラスの空気は、黙認していた。教師も見て見ぬふりだった。


それでも、彼女は席に座り、静かに消しゴムで落書きを消した。


だが、その背後。黒い影のようなものが、机にまとわりついていた――


そのとき、教室のドアがバンッと開いた。


着流しに木刀、草履履きの――宮本武蔵が入ってきた。


「その影、斬らせてもらう!」


誰もが凍りつくなか、武蔵は迷いなくいおりの机に歩み寄り、空を一閃した。


音はなかった。ただ、その瞬間、いおりの机から黒い靄がふっと消えた。


生徒たちがざわめく。


「……なに、今の」


「なんか、変な空気……?」


武蔵は振り返り、全員に向かって言い放った。


「この者は、“高梨いおり”と申す。己が名を、己が意思で選んだ者だ。その名を貶めることは、戦場で旗を折るに等しい卑劣よ」


教師が口を開こうとするが、誰もが武蔵の言葉に圧倒され、言葉を失っていた。


その日から、クラスの空気が少しずつ変わった。

すぐにいじめがなくなったわけではない。

だが、誰かが口を開くたび、「いおり」と呼ぶ声が、ひとつ、またひとつと増えていった。


彼女は、やっと、「自分の名前」で呼ばれるようになった。


いおりは、放課後の校庭で武蔵に頭を下げた。


「ありがとう。……あたし、自分の“名”が、ようやく自分のものになった気がする」


「よい名だ。戦うに値する」


武蔵はうなずき、木刀を背に静かに去っていく。


心の闇を斬るのは、刀にあらず。


ただまっすぐに、人としての尊厳を肯定する言葉――それこそが、現代を生きる“剣豪”の真の武器だった。

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