エメラルドが咲いた
紫清小町
第1話
今日もいた。
お気に入りの喫茶店に入ると、自然と窓側の席に目が向く。いつも同じ席に座っている男性。横顔しか見たことはないのだが、僕はその美しさに心を掴まれていた。睫が長く鼻が高いことからかなり容姿端麗なのではないかと思われる。愁いを帯びているような表情に、同性であっても見とれてしまう。姿からまとう雰囲気まで美しい彼を、僕はこっそりと「窓ぎわの君」と呼んでいた。
彼は毎日来る常連客なのか、僕が喫茶店に来ると毎回いる。ここまで来店時間が被るとうっかり運命を感じてしまいそうだ。あわよくば仲良く、なんてことも思わないことはないのだが、話しかけることはできなかった。僕が話しかけたとたん霧のようにふっと姿を消してしまうのではないか、そんな不安を抱かせてしまうほど、彼が儚さを持っているからだ。
だから、僕はいつも少し離れた席で、秘かに彼を眺めるだけだった。
「ご注文は」
マスターが僕に声をかける。
「ホットコーヒーで」
「かしこまりました」
マスターはカウンターの方に戻っていった。僕は頬杖をつき、視線だけ「窓ぎわの君」の方に向ける。彼はコーヒーに口をつけるところだった。さらさらの髪が揺れて、カップがゆっくりと傾く。喉仏が動いて、カップを小皿に戻す。その所作の一つ一つが美しかった。ふと、彼の動きをじっと見ている自分の気持ち悪さに気づき、慌てて視線を窓の外にスライドさせた。寒空に、葉を全部落としてしまった街路樹。初夏のようなきらめきを持つ彼とは正反対の景色だ。
彼の様子を眺めていると、ことり、と音がした。マスターが僕のもとにコーヒーを置いてくれていた。
「ああ、ありがとうございます……」
「気になりますか、あの方」
どきりとする。マスターにはばれていたようだった。顔から火が出そうになる。
「……あの人ってよく来るんですか? 僕が来ると毎回いるような気がするんですけど……」
「あなたがこの店に初めて来店した少し前から毎日来ていらっしゃいますよ」
「そうなんですね……」
「席もずっとあそこです。よほどお気に入りなんでしょうね」
「ふーん……」
ではコーヒーが冷めてしまいますので、とマスターは僕のもとを離れた。
僕はコーヒーを一口飲んだ。苦みの奥にほのかな甘みが感じられておいしい。僕は酸味のあるコーヒーが苦手なのだが、これは少ないので好んで飲んでいる。ちらりとまた彼の方を見ると、何か本を読んでいるようだった。ページをめくる所作もまた美しい。
僕はコーヒーを飲み終えて席を立った。「窓ぎわの君」はいまだ席を動かず、黙々とページをめくっている。もう少し彼を見ていたい気持ちもあるが、そんな下心を理由に長居してはいけない。
「お会計お願いします」
マスターに声をかけ、レジの前に移動した。マスターがレジスターを動かす。
「六百円になります」
僕が財布から五百円玉を取り出そうとした途端、するりと手から零れ落ちてしまった。
「あっ」
止まることを知らない五百円玉は足早に床を転がっていく。そして「窓ぎわの君」の足にぶつかり、ようやく止まった。音で気づいたのか、こちらが声をかける前に彼は五百円玉を拾い上げた。
「あの……」
「あ、これ貴方のですか?」
初めて聞いた「窓ぎわの君」の声。優しさに少しざらつきを足したような声だった。想像とは違う声で、少し混乱する。でもその混乱でさえ心地よいほど彼の声は素敵だった。
「あれ、違いました?」
「窓ぎわの君」が小首をかしげる。その動きにはっと我に返った。初めて聞く彼の声に気を取られてしまった。
「あ、そうです! 僕のです」
慌てて彼のもとへ向かう。僕が右手を広げて差し出すと、そっと五百円玉を置いてくれた。
「すみません、ありがとうございます」
「ちょっと待って」
足早に彼の元を離れようとすると、呼び止められた。もしかしてずっと見つめていたことに気づいていたのだろうか。気味悪がられるのか怒られるのか。嫌な予想が脳内を駆け巡る。
「な、何でしょう……」
「貴方、いつもこの喫茶店にいますよね」
認知。彼の中に僕がいた。
「ああ、まあ、はい」
「僕がここに来るといつも貴方がいるのでずっと気になってて。この空間が好きなのかな、だったら話が合いそうだな、とかずっと考えてて。何度か話かけてみようかなって思ったんですけど怖がられるかなって」
想像もしていなかった良い方向での認知。相思相愛という言葉が勝手に湧き上がってきて口角が上がりそうになるのを必死にこらえた。さすがに自意識過剰である。
「そんな……実は僕もずっと気になってて……お話しできたらいいなぁとか思ってました」
存分に自分の気持ち悪さを削り取って気持ちを言葉に出すと、彼は少し驚いた表情をしてすぐにふんわりと笑った。
「まるで相思相愛みたいですね」
自分の中で沈み込ませた言葉をさらりと彼は口にしてしまう。そのきれいな顔でその言葉、うっかり本気にしてしまいそうになるじゃないか。先ほどの嫌な予感はどこへやら、高揚感が僕の体中を駆け巡っていた。五百円玉を握った手が湿っていく。
「あの、お会計……」
駆け巡る高揚感にブレーキをかけたのはマスターだった。そもそも僕はお会計をしようとして五百円玉が転がり落ちてしまったから彼のもとに向かったのである。それをすっかり忘れてしまっていた。
「あ、呼び止めてごめんなさい」
「い、いえいえ! 僕もすっかり忘れてしまっていたので……」
「またお話ししましょう。僕はほぼ毎日来てますから」
今でも良いのに、と思ったが駄目だ。これからバイト、その前にお会計。懸命に気持ちを落ち着かせる。
「また明日、来ます」
「ふふ、楽しみにしてます」
柔らかに笑う彼に、ふわふわと浮き上がってしまいそうになるが、なんとかつなぎ止めてお会計に向かう。レジにて六百円を渡すと、マスターが口を開いた。
「嬉しそうですね」
「あ……顔に出てます?」
「ええ、とても。だいぶ話し込んでたみたいですが」
「いやぁ……彼も僕がいつもいること知ってたみたいで。またお話ししましょうって誘われました」
「なるほど……そういうことなら、私は何も言えませんね」
穏やかな声でマスターが言う。マスターなりの優しさに、思わず笑みがこぼれた。
ドアを開けるとからころからん、と音が鳴り、冷気が肌に触れる。彼の方を見ると、「また明日」と口を動かして優しく手を振ってくれた。手を振り返して、外に出る。
風は冷たかったが、心は温かかった。思わず少し、走ってしまう。これまでの人生の中で、一番明日が楽しみだった。
エメラルドが咲いた 紫清小町 @sise_koma
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