心海
粟野蒼天
第1話
朝、目を覚ますと物凄い倦怠感が体を襲った。
だるいな。体が重い。一挙手一投足がナマケモノのようになってしまう。
時刻は七時を少し過ぎた頃だ。カーテンを開け、窓を覗くと雨が降っていた。雨か。
雨の日は憂鬱だ。服は濡れるは頭痛は起こるは帰りは遅くなるはでろくなことがない。
雨が好きな人なんてそうそういないだろう。
あぁ……学校に行かないとな。
鉛のような重たい体を動かして僕はリビングへ向かう。
「おはよう、薫」
「おはよう」
リビングに着くと二つ上の姉、凛がいた。
姉はトースターを食べ終えて出かける支度をしている最中だった。
「ご馳走様、私もう行くから片付けよろしくね」
「はいはい」
そういうと姉はカバンを持ってそそくさと家を出て行った。
両親は既に仕事に出て家には僕一人。
一人残された僕はテーブルに用意された朝食を食べた。
「ごちそうさま」
朝食を済ませ、僕は学校に向かった。
傘に降り注ぐ雨粒。雨雲で曇りきった街。水たまりのできた道のくぼみ。水滴の点いた空き缶とタバコの残骸。見慣れた光景だ。
「うわっ……」
側を通ったトラックに水を掛けられた。膝の辺りまでびっしょりと濡れてしまった。最悪だ。
駅に着き、改札を抜けて電車に乗り込む。人の多さは相変わらずだ。後ろから強引に押される度に嫌気が差す。人の溢れた満員電車。肌に触れるポリエステル製のシャツの質感。湿度の高い車内。顔をかすめる人の息。不快極まりない。
「ちょっと触らないでくれます!?」
数メートル先の女子高生が突然、中年男性の腕を掴み大声を出した。
「は? なにをいっているんだ!」
「この人痴漢です!」
電車内が一気にどよめき始めた。男性に向かって無数の視線が集まる。まるでこの世の醜悪を見つめるかのように。
「違う! 私はやっていない!」
男性は必死に弁明していたがこの空気、男性の味方をする人は一人もいなかった。
電車が止まり、ドアが開かれると男性は数人の人に掴まれて、下車していった。
その時、声を上げた女子高生がニヤリと笑っている所を僕は見てしまった。
うぅ……嫌なものを見たな。頭痛が激しくなる。
僕は人間が嫌いだ。ゴキブリの次に嫌いだ。
汚く醜く愚かで人を陥れたりして、それを見て楽しんだりする。
忌々しさを固めて人の形にして蛇蝎を埋め込んでもここまで醜くはならないだろう。
僕自身もそうだ。なにもしないでただ目の前で起きたことを静観している。
死んでしまえ、死んでしまえ、死んでしまえ、死ね。死ね。死ね。
死にたい、死にたい、死にたい、死んでやる。死んでやる。死んでやる。
目の前の光景を眺めながら僕はそう思った。
◇
学校に着くと声を掛けられた。
「よう、薫、おはよう」
「おはよう、陸」
高校の同級生の陸と挨拶を交わし僕は席に着いた。
「なぁ知ってるか、さっき電車の中で三組のやつが痴漢にあったんだってよ」
「知ってるも何もその現場に居合わせたからな」
「マジで?」
「マジ」
「誰が痴漢にあってたんだ?」
「分からない、興味もないしでも……」
「でも?」
「痴漢されたって叫んでた人、おっさんが連れてかれるのを見てニヤついていたんだよな」
「冤罪吹っ掛けたとかか?」
「それは分からないよ」
「そっか……」
つまんないのといい陸は他のやつの所に向かった。
言ってしまって良かったのかと会話が終わった後に考え込んだ。
本当に痴漢にあっていたかもしれないし、そうでないのかもしれない。何にしろ憶測で話すのは良くないな。人の気持ちを考えない奴だと思われただろうか。嫌われただろうか。
自分のこういうところが心底嫌いになってくる。何も考えないで発言する癖に後々になって
後悔している。何度も何度も同じ過ちを繰り返している。――何もできない雑魚め。
死んでしまえ!
そんな自分の心の声が耳の奥に響き渡る。反響して大きくなったそれはクジラの泣き声のようなあるいは猿の泣き声か、とても深いな音となって僕の鼓膜にこびりついた。
その日、僕は夢を見た。
◇
顔を流れる涙の感触によって目を覚ました。視線の先には見慣れた光景が広がっていった
窓の向こうを走る車、雨水に濡れた木々、午前七時丁度を指した時計。
いつもと同じ部屋の風景。垂れ流れる涙を拭う。
なんだろう、久しぶりに気持ちのいい朝を迎えられた気がする。
何故だ。 昨日、あんなことがあったてのに……。あんなことってなんだっけ。思い出せない。まぁいいか。今はとにかく体が軽い。
いつもは体が重く、起き上がるのもやっとだというのに。
ベットから降りるといつものような倦怠感がすっかりとなくなっていた。
なんだ? 今日はやけに体が軽いな。まるで水の中にいるみたいだ。
軽快な足取りでリビングに向かう途中で僕は不思議なものを見た。
それは宙を泳ぐ一匹の魚だった。イワシによく似ているそれは廊下をぷかぷかと泳いでいる。
「魚、なんだこれ?」
魚に近づくと魚は僕のことを避けるようにして、消えてった。
ブクブク……ブクブク……。
泡の弾ける音が後ろから聞こえてきた。
振り返るとそこにはさっき見かけた魚が群れが宙を舞っていた。
魚の群れは僕のことを避けるように玄関のほうに向かっていった。そして、そのまま玄関を透過していった。
寝ぼけてるのか……?
僕は振り返って、リビングの扉を開けた。
「おはよう……」
リビングに入った僕は唖然とした。
そこには誰もいなかったのだ。
火が付きっぱなしのキッチン、朝の情報番組が流れ続けるテレビ、食べかけの朝食。
人がいた痕跡は確かにるのに、誰もいない。
「父さん? 母さん? 姉ちゃん?」
僕が呼んでも誰も返事をしない。
からかっているのか?
家のあちこを探してみても誰も居なかった。
出かけているのだろうか。
不可解な点が多かったが、学校の時間が迫っていたので僕は急いで支度をし始めた。
朝食を食べ、制服に着替えて僕は学校に向かう。しかし。
ドアノブに手を掛け、玄関の扉を開けた瞬間……。
ギュオ――
一瞬にしておびただしい数の魚の群れが押し寄せてきた。
(なんだ、これ!?)
突如押し寄せてきた魚の大群に僕は尻餅をついた。
目の前にはプカプカと泳ぐ様々な種類の魚たち。
体を起こして、玄関の外に出るとそこにはクジラや巨大なイカが空を泳いでいた。それだけじゃない、見たことのない生き物までもが空を泳いでいた。サメ?
「なんだよ、これ?」
それはまるでこの世界の全てが水に沈んでしまったかのような光景だった。
空は水面のように日の光を乱反射して輝ていた。その眩しさに僕は眉をひそめた。
夢じゃないよな。僕は自分の頬をつねった。すると微かな痛みが感じられた。
これは紛れもない現実だ。間違えない。
しかし、一体これはなんなんだ。
訳が分からないまま僕は家を飛び出した。
街中を走り回ってみても、人は見当たらなく代わりに魚の群れや海の生物が泳ぎ回っていた。
地面から湧き出る鮮やかなシャボン玉。触れると簡単にはじけ飛んでしまった。
壁を這うダンゴムシに似たなにか。桜の花びらのように舞うクリオネ。車道を規則正しく泳いでいく魚たち。見たことのない巨大魚。
僕は立ち止まり、街の姿を見回した。
建物は所々壊れたおり、不格好に見える。どこからともなく聞こえてくる不協和音。
でもそれがどこか心地よいのだ。温かいお風呂に浸かっているような心地よさ。
不思議で歪な世界だ。
いつも見ているはずの街の姿がいつもより綺麗に見えた。
人のいない街。水に溺れた世界。なぜだか分からないが、僕の心が穏やかになっていった。
どことなく既視感のある世界だ。崖の上のポニョで見た海に沈んだ世界に似ているな。多分それだけじゃないと思う。
しばらく街を進んでいると駅にたどり着いた。駅か。ほんの一瞬だけ見知らぬ光景が脳内に映し出された。行きたくない。行ってはいけない。そう語り掛けられているように聞こえてくる。しかし、僕の足は動いていた。
そのまま僕は引き寄せられるかのように駅のホームへと向かっていた。
静寂が広がる駅の構内。学校に向かう路線と真逆の路線がが目に留まる。
僕はその路線を目掛けて、ゆっくりと足を動かした。
そのホームには既に列車が着いていた。
僕以外に誰も乗っていない車両、新鮮だ。僕が列車に乗り込むと、列車は程なくしてホームを離れた。
列車の中はとても静かだった。相変わらず魚たちはプカプカと泳いでいる。
窓の外を見るとそこには荒れ果て植物に覆われた東京の街並みが見えた。
僕のいた街とはかけ離れた景色に僕は息を飲んだ。
もしかして、僕は人類が滅んだ近未来にでも来てしまったのか。
それとも、ここは海に沈んだ異世界なのだろうか。
多分、どちらでもでもないんだろうな。
そんなことを考えながら僕は静かに列車に揺られた。
僕の乗った列車は次の駅のホームに入っていった。
一斉に開かれる扉。誰も入ってくることはないのだろう、そう思っていた。
ホームの方からかつかつと足音がして来た。
人がいるのか?
僕は窓からホームを覗いた。
そこには鮮やかな水彩の髪の少女がいた。人工的な施しを受けていないであろうその髪はこの鮮やかな世界に上手く溶け込んでいた。
「綺麗な人だな」
思わずそう声に出してしまった。
すると、少女は僕の視線に気が付いたのか電車に乗り込んできた。
「驚いた、この世界に私以外の人がいたんだ」
少女は目を見開き、物珍しいものを見るかのように僕のことを見てきた。
「えっと君は?」
「私は青(あ)澄(すみ)徹(とおる)、そういう君は?」
「僕は水谷(みずたに)薫(かおる)」
「よろしく薫君。私のことは好きに呼んでよ」
「じゃ青澄さんで……」
「それでいいよー」
ふわふわとしたしゃべり方。耳が癒される声。泡のような人だなと、そんな印象を抱く。
発車の音楽が流れると青澄さんは僕の向かい側の席に座った。列車が動き出す。
青澄さんはヘッドホンを付けて音楽を聴きだした。
微妙な空気が流れる。なにかを切り出さなければ、そう思っていても体は言うことを聞いてはくれない。そうして時間が過ぎて行こうといた。僕はこの空気に耐え切れずに青澄さんに話しかけた。
「青澄さん,、聞きたいことがあるんだけど……」
僕の問いかけに青澄さんはヘッドホンを外して耳を傾けてくれた。
「聞きたいことって?」
「この世界は一体なんなの?」
「この世界はね私たちの“心”が具現化された世界なんだよ」
「心が具現化した世界?」
「周りを見てみて、見覚えのあるものがあるはずだよ」
言われた通り、電車の中から周りを見渡してみる。するとあるものが目に飛び込んで来た。
それは、小さい頃に行ったことのある遊園地。少し前に閉店してしまった行きつけのラーメン屋。それだけじゃない、お気に入りの布団、小さい頃に亡くしたままの羊のぬいぐるみ。窓の外をゆったりと漂っていた。
当時は見つからなくてギャン泣きしてたっけ、懐かしい。
そうだ、妙な既視感の原因はこれだったんだ。
妙に納得していると今度は青澄さんの方が僕に話しかけてきた。
「私はねこの世界を“心海”って呼んでるんだ」
「心海?」
「そう、結構いいネーミングだと思わない?」
心海……か。いい響きだ。
「ところで薫君はどうやってこの世界に来たの?」
「よく分からないんだ。起きたらこの世界にいたんだ」
「そっか、私と同じなのかと思ったんだけどな」
「同じ?」
「私はね、これを使ってきたんだ」
そういうと青澄さんは自分の胸から何かを取り出して見せた。
それはガラス細工のように透き通っている巻貝型のネックレスだった。
「私はこれを使ってこの世界に来たんだ」
「それは?」
「これはね、もう一人の私がくれた宝物なんだ」
「もう一人の自分?」
なにを言っているんだこの人は?
「なにを言ってるんだって顔をしてるね」
なぜバレた……?
「私に隠し事はできないんだよ!」と決め顔をして見せた。
思いのほか、子供っぽい人なんだな。
「話を戻そう、私がこのネックレスを貰ったのは初めてこの世界に来た時なんだ」
青澄さんは懐かしそうにして、過去のことについて教えてくれた。
うつ病でなにもかもが嫌になっている時、家のバスタブに浸かっていると、この世界に迷い込んでしまったのだとか。この居心地のいい世界に飲まれそうになった時に文字通り“もう一人の自分”が現れ、救いの言葉を掛けてくれた。そして、別れ際にそのネックレスを渡されたのだとという。それ以来、辛くなるとネックレスを握りしめ、この世界に来るのだそうだ。
なんともファンタジックな話だ。僕もこの世界にいなければただの作り話かなんかだと思っていたことだろう。
「この世界があったから今の私があるんだと思う」
神妙そうな顔付きで青澄さんはネックレスを見つめていた。
それ程までに彼女はそのもう一人の自分とこの世界に救われたということなのだろう。
「薫君はどう? なにか悩んでいたり、辛いこととかあるんじゃないの?」
「悩んでいること……」
一瞬躊躇ったが、僕は今まで誰にも言えなかったことを青澄さんに打ち明けた。
僕は自分を含める“人”が嫌いだということ。人が生み出す物事の全てが嫌いでそのせいで周りと上手くなじめずにいること。それなのどこかさみしがり屋で人と関わっていたいと思っている自分が嫌になっていることを洗いざい青澄さんのに打ち明けた。
不思議だった。ついさっき会ったばかりの人にこんな暗い話をしている。今まで誰にも言ってこなかった心の中のことをただ淡々と話している。話しているのが初めて会った人だからか。違うな。きっと青澄さんだから話せたのだろう。彼女じゃなきゃ僕もここまで離さなかったと思う。彼女は泡のような人だ。
そこにはひとかけらの不快感や焦燥感はまったくなかった。ただ体が軽くなっていくのが感じられた。人に話すってことはこんなにも楽になるのだと、僕は今初めて知った。
「ひとつ聞きたいことがあるんだけど」
「なに?」
「青澄さんはそのネックレスを使ってこの世界に来たんだよね、それなら元の世界に帰る方法も知ってるんじゃないの?」
「知ってるよ」
即答。間髪入れなずに青澄さんは答えた。
「どうやったら帰れるの?」
「知ってるって言っても、これは私にしかできないと思うよ」
「それでもいいから教えてくれない」
「うん~私の場合、ネックレスをまた握りしめて帰りたいって思うといつのまにか自室のベットに戻ってるんだよね」
「それって僕にもできるかな?」
「多分無理」
「そっか……」
「薫君は帰りたいの?」
「……分からない」
返答に困る。
果たして僕は帰りたいとおもっているのだろうか。この世界から抜け出したいと本気で思っているのだろうか。正直、この世界は元の世界の数倍は居心地の良い世界だ。ずっとここにいたいと思うし、このままなにも考えないでいれればどんなにいいことだろうか。ただ、そうはいかないだろう。
窓の外を眺めながら考えを巡らせる。しかし、答えは出ないままだ。
「悩んでるんだったら少し私と一緒にこの世界を見て回らない?」
思いもよらない提案だった。僕は青澄さんの顔を見つめた。ありかもしれないな。
「それじゃ、そのよろしくお願いします」
「早速、次の駅で降りてこの世界を見に行こうよ」
「分かった」
電車は数分で次の駅に停車した。僕たちは電車を降り、改札を抜け街に繰り出した。
◇
駅の外では天気雨が降っていた。空を見上げるとそれは宙に浮かぶクジラの潮吹きだった。降り注いだ潮水は虹色の波紋となって広がっていく。膝の高さまである水を押しのけて僕たちは進んでいく。水の音。街には草木が生い茂っており、ジャングルのようになっていた。交わることのない者同士が混じり合い調和を保っている様はどこか落ち着くものがある。
「着いたよ」
僕たちがたどり着いたのは駅から程近い場所にあるこじんまりとした映画館だった。
「行こう」
僕は青澄さんに連れられるまま映画館へと入っていった。映画館には案の定人はいなく、完全貸し切り状態だった。うわ~こういうの憧れだったんだよな。人がいない映画館で思う存分映画を見る。誰もが一度は思い浮かべたことが目の前に広がっている。
「さっ映画を見ようよ」
そこには変な帽子とサングラスを付け、両手にポップコーンをジュースを持っている青澄さんの姿があった。
「それ、どこにあったの?」
「この先にある売り場にあったんだ、薫君のもあるよ」
ありがとうと言い僕はポップコーンを受け取った。
うん、僕の好きなキャラメル味だ。美味しい。
僕たちはシアターの一番真ん中の二席に座りこんだ。始まるや否や映画の予告や頭がカメラの人たちの映像が流れてきた。いつもと変わらないのに、今はなぜかとても穏やかな気持ちだ。
青澄さんがいるからだろうか。横を見ると目を輝かせている青澄さんの顔があった。どんな映画が上映されるのか心待ちにしているのだろう。改めて見た青澄さんの顔はどこか引き込まれるものがあった。
そして、映画が始まった。
スクリーンに映し出されたのは『ジョゼと虎と魚たち』というアニメーション映画だった。
下半身麻痺で車いすに乗りながら生活しているジョゼとジョゼの家の管理人となった恒夫が織りなす恋愛物語だった。映像、音楽、ストーリー。その全てがとても綺麗で繊細で優しいもで心が和む作品だった。
映画が終わり、映画館の外に出ると雨は止み、太陽が雲から顔を出していた。
「映画めちゃくちゃよかったね」
「薫君はどのシーンが一番印象に残った?」
「やっぱり、ジョゼと恒夫が浜辺で踊っているシーンが一番印象に残ってるかな」
「分かる、私もそのシーンが一番好きだな~」
「あんな風に楽しく踊れたらさ、きっと気持ちがいいんだろうね」
「じゃあ、私と一緒に踊ってみる?」
「えっ?」
そういうと青澄さんは僕に手を差し伸べてきてくれた。
その手を取ると、途端に僕たちは地面から湧き出てきたシャボン玉に包まれた。
パチンッ!
目を開くとそこは、映画の中で見た浜辺にそっくりな場所だった。
「さあ、薫君。ちゃんとエスコートしてよね」
僕の手を握る青澄さんの力が少し強くなる。僕も青澄さんの手を強く握り込んだ。
足元に温かい水が流れ込んでくる。水平線は色鮮やかに輝いていた。
青澄さんの腰に手を回す。とても柔らかくて、まるでぬいぐるみを抱き上げているみたいだ。
ワンツースリー・ワンツースリーとリズムを取りながら舞っていく。動く度に足元に小さな水飛沫が飛び交う。魚がくるぶし辺りをくすぐってくる。日差しが静まりかける。海水の温度が下がる。水平線が真っ赤に染まっていく。
あぁ……楽しい。
僕はこの瞬間、今までで一番幸せな気持ちとなった。
◇
「どうだった?」
踊り終わった僕らは砂浜に座り込み、夜空を眺めていた。
「凄い楽しかった、今まで生きてきた中で一番楽しかった」
「大袈裟だよ」
大袈裟なんかじゃない。
「僕はさ、今まで生きていて楽しいことなんてないと思ってたんだ」
ずっと薄暗くて冷たくて恐ろしい世界にいたんだと思う、早く死んでしまいたいと何度も何度も考えた。
「だけど今日、青澄さんと出会ってそんなことないんじゃないのかって思えたんだ」
「それは良かったよ」
「ありがとう青澄さん」
「どういたしまして」
「ずっとこの世界にいたい。でも……」
「でも?」
「それじゃ、駄目な気がするんだ」
「どういうこと?」
「僕はこの世界に来て、青澄さんと出会って、色んなものを見て『生きたい』って思えるようになったんだ」
僕はこの世界に来て、初めて生きたいと思えた。
死にたいだなんて思うことも少なるだろう。
この世界に残り続けることは上手く言い表せないが、僕にとってそれは『死』を意味することだと思ったんだ。
見たくないものを見なくて済むなら誰だってそうするだろう。
やりたくないことをやらなくて済むなら誰だってそうすだろう。
でもそれはただ現実から逃げてるだけなんだ。
だから僕は元の世界に帰らにといけないんだ。
人間になれないんだ。
「僕決めたよ。元の世界に帰ろう思う。帰り方とかは分からないけど」
「じゃあ一緒に探しあげるよ」
月夜に照らされながら、僕らは浜辺を後にした。
◇
夜が明ける頃には僕たちは列車に乗り、最初の街に戻って来ていた。
青く色好き始める街並みを列車の窓から眺める。
美しい世界がより一層綺麗に見えた。このままずっと眺めていたいがそうもいかない。
「さてと、どうやって帰ろうか」
「薫君にとって一番思い出に残っている場所とかはどうかな?」
「一番心に残っている場所?」
「うん私の場合、バスタブという空間がこの世界と元の世界を繋ぐ場所だったの」
僕の心に一番強く刻まれた場所。それは。
「水族館」
「水族館?」
「この近くにある水族館なんだ。小さい頃両親に連れてってもらたんだ」
「じゃあそこに行ってみようよ」
「そうだね、行ってみよう」
それから僕たちは電車に揺られ、目的地であるすい水族館にたどり着いた。
水族館では魚たちが水槽から抜け出しており、水族館と呼べる場所ではなくなっていた。
「見てみて」
「なにそれ」
青澄さんはなぜかラブカの被り物を被っていた。
「どこにあったのそれ?」
「お土産屋さん」
ラブカに噛まれてるみたい。くすっと笑う青澄さんもつられてくすっと笑う。
やっぱり青澄さんは面白いな。
それから僕たちは水族館中を歩きまった。水槽の一つ一つを見るたびに頭の中に映像が映し出されていく。
あの頃が全てが輝いて見えていて、とても楽しかった。そんな記憶が溢れ出してくる。
そして、僕たちは見つけた。巨大な水槽の中にポツンんと佇む木製の扉を。
元の世界に帰る為の道を。
「やったね薫君。これで元の世界に帰れるね」
「うん」
これで元の世界に帰れる。それなのに……。
「どうかしたの?」
「青澄さん、ありがとう」
「そんなお礼なんていいのに」
「僕は青澄さんに助けれてばかりだ、なんのお返しも出来ていない」
「私はね、君とこの世界で過ごせたことがとても、とっても楽しかったんだ。今までこの世界を一人で見て回ってた」
青澄さんは寂しそうな顔を見せた。
「救われていたのはむしろ、私のほうなんだよ」
「ねえ青澄さん」
「なに?」
「僕たち、元の世界に戻ってもまた会えるかな……」
「会えるよきっと」
「探しに行くよ、僕が青澄さんのことを」
「約束だよ」
「約束」
僕たちは互いの小指を差し出して指切りげんまんをした。
「それじゃ、またね」
「うん、またね」
青澄さんは精一杯の笑顔を見せた。
僕はドアノブに手を掛け、扉を開いた。
扉の先は真夜中の自室だった。
振り返ると扉は既に無くなっていた。
僕はその日、夢を見た。
それはとても鮮明でとても非現実的な夢だった。
しかし、僕はその夢のことを、その世界のことを忘れることはないだろう。
その世界の名前は“心海”。
僕はそこである人と出会った。
その人の名前は『青澄透』。
子供っぽくて、お茶目で、寂しがり屋さんで、可愛らしい泡のような人だった。
◇
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
僕は勢いよく扉を開いた。
いつもと同じ通学路を歩いていく。
駅に着くと改札付近で僕に向けて手を振る人がいた。
「おはよう、薫君」
「おはよう、青澄さん」
微笑んだ青澄さんはとても輝いて見えた。
心海 粟野蒼天 @tendarnma
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