私は後輩からゲームを学ぶ
あま
第1話 一時の失敗
白い天井をじっと見上げて、ソファの上に座ったまま、既に何分たったのか忘れてしまった。ごはんを食べるのも面倒くさくて帰ってからずっとこのまんまだった。たまにある無気力症候群。症候群なんて大袈裟な言い方ではあるが、動きたくないのは事実だった。そしてそろそろ天井の明かりが眩しくて目に焼きついてきていた。目をつむると暗闇の中で白い明かりがうるさく主張していた。
何も考えたくなかった。
時折テーブルの上にあるお菓子の袋に手が伸びては食ってまた目をつむって。そんなことを繰り返してさっき時間が0時を回った。風呂どうしようか、と思いながら体は動かない。ネトフリもティックトックも開く気になれなかった。なのに眠れない。いっそ眠ってしまいたいとか思いながらこういう時に限って体は都合よく眠くはならないのだから気が利かない。
こういう時に私に連絡の一つでもよこしてくれる男がいればまた別なのかもしれない。
もちろんいるわけがない。
いや全くいないわけでもないけれど。
LINEを開けば手応えのありそうな奴の顔がちらほらと出てくる。
だがだから何だというのか。
こういう時に話して癒しになるような都合のいい奴はいない。そして元来一人が好きな私にとって、こういう時に頼れる友達なんてのもいないわけで。
まあいいんだが。
好きでそうやって生きてきたのだから。
ただ、こういう時には、社交性が心の底から根を生やしているような奴だと強いのかもしれない、なんてふうに思う。
さて、私はこんなふうでこの先生きていけるのかと髪を乾かしている時にふと出てくるような突拍子もない懸念が出て、しかし出てきたところで別に真面目に考えたりするわけでもない。
そうやってうだうだと考えながらギリギリまで怠慢を攻めたところで風呂に行って湯をためる決心をした。
一時三十分を回ってようやく風呂だ。二時を回っては朝の準備が辛くなる。明日も仕事なんだからあんまりだらだらしてもいられない。
よっこいしょと立ち上がり、私はスマホを持って風呂へ行った。
四時。私はベランダに出てコーヒーを啜っていた。夜風が気持ちよい。
この時間に堂々とカフェインを入れていることはある種の自殺宣告にも思っているが、人間というのは風呂に入ると幾分か思考が切り替わるというもので、寝れない日にうんうんとベッドを行ったりきたり、何も変わることのない天井とにらめっこ、瞼の裏の暗闇とにらめっこしているよりかは、夜をゆったりと楽しめばいいではないかと、私はなんだか少し大人になった。とはいえ五時くらいには少しだけ目をつむって仮眠を取ろう。
起きたのは朝の7時30分だった。我ながら上出来である。電車の出発まで残り一時間。当然朝飯は抜いた。まあ、準備なんてあってないようなもの。30分か40分もあれば大丈夫だろう。実に腑抜けた会社員だ。なんといっても今日は木曜日。一週間の中でイチニを争うくらいにはやる気が埋没している日なのだから。
出勤するとパソコンの前に座ってスマホと睨めっこしている早瀬の姿が目に入ってきた。傍から視線を伸ばしたところで何をしているかはわからないがどうせゲームをしているのだろう。目が真剣だ。仕事でパソコンとにらめっこしている時とはわけが違う。
仕事をしている時の早瀬はかけている丸メガネの印象も相まってどこかくすんでいる。癖のある長い髪のせいで全体的に。
しかし早瀬の場合、その姿に反して仕事の時の動きはいい。テキパキとして無駄がない。目は死んでいるようで必要な仕事を俊敏にこなしている。だからスマホゲームをしている時の早瀬と、仕事でスマホを見ている時の早瀬は判別が難しい。脇見防止フィルター効果のある保護フィルムを画面に貼っているから側から見れば仕事をしているように見えなくもないのだ。
だが、今はまぎれもなくゲームだろう。そういう目だ。彼女の目つきはいま戦いをしている時の目である。
だが今はそんな同僚観察などどうでもいい。というかそんなことをしている場合ではない。
私の机にはいくつかの書類が置かれている。
なんてことはないデータ作りのための資料だ。
昨日のことは今でも頭に浮かぶ。
机には二つの資料が隣り合わせに置かれていた。シュレッダーにかける処分予定のものと、データ作成のための資料だった。親会社に送る予定のもので割と大切なものだ。翌日には送っておきたいものだった。
まあそんな大切なものを、私はシュレッダーにかけたわけだが。
不運な事故だった。
シュレッダーから戻ってくると粉々になっているはずの用済みの書類がまだ机の上にあって、これからつくるはずのデータに要る資料が丸っとなくなっていた。気づいた時、一瞬で背筋に寒気が走った。
シュレッダーを開けてみたところで何も解決しなかった。
粉々になった紙片からは見覚えのある文字列の印字が見えた。
もう間違いはなかった。
上司に申し伝えた時、少し目の色を変えた。
しかし幸いにも資料は上司のパソコンからもう一度印刷し直せばよかったからそれほど問題ではなかった。上司の方も事が取り返しがつくをわかるとすぐに気を取り直した。気をつけてね。とは言われた。しかし書類が大事なものだったら即アウトだったろう。一つでも親会社の方に事情を説明しなければならないものがあったらそれだけでも面倒極まりなかったはずだ。
何にしても一つものが違ったらかなり危ういミスだったことに変わりはない。
ミスの発端を辿れば、それは机に大切な資料と処分予定の資料とが隣り合わせに置かれていたことだった。
ハイハイ、シュレッダー。と小慣れたことと言わんばかりにあまり確認せずに私はシュレッダーにかけ始めた。
軽率といえば軽率だった。だがふだん、この手の書類が同じタイミングで私の机に置かれていることはほとんどなかった。だから何かの拍子で意識が狂い、大事な方の書類を手に取ってシュレッダーへと向かってしまった。ちょっとした事故に近い。もっといえば置いた誰かが、少し気をつかってポストイットかメモか何かでも置いておいてくれたら防げたミスかもしれない。内容は違うが、紙の色は同じで、分厚さもさほど変わりなく、よく見なければ右と左を取り違えてもおかしくはなかった。
なんて。バカみたいな話だ。
取り違えるわけがない。だがもし忙しかったら、それもありえたかもしれないし、実際、あの時は、次の仕事のことも考えて動いていた。当たり前のことだ。
そうやって、間違えた後、いつもなら考えもしない仮定があれこれと頭に浮かんだ。
そして二時間後。予定されていたミーティングに遅刻した。
すっぽりと忘れていたというか、日程を勘違いしていた。
直前に連絡が入った。
来週、同じ時間にミーティングをやるというのだ。来週のことなんか今はいい。と思った頭がそれごと彼方へ予定を追いやったのか、先ほどのミスによる資料の印刷し直しとデータ作りに頭が追われていた私はすっかりとその後のミーティングのことが頭から抜け落ちていた。
教えてくれたのは早瀬だった。
「あれ? 今日ミーティングって言ってませんでした?」と。
ああいい子だ。
入って二年目。仕事も板についてきて、ゲームをやっている時の半分にも満たないであろうエネルギー量でテキパキと仕事をこなしていくやる気のなさそうなその気だるそうな目が、不思議そうな目で私を見ていた。
ああ、いまちゃんと仕事中なのね、と。
いや、ちゃんと仕事をせねばならないのは私の方だ。
私もなぜ忘れていたのか不思議だった。いや原因はわかっている。悪いのは私だ。しかしどうしてそんな私ばかりを責められよう。私は大急ぎで会議室に向かった。今度は逆にシュレッダーにかけたあれこれのことなどどうでもよい。
会議室に入った時、お偉い様方の目が皆一様に私に厳しい目つきを投げかけていた。
はい。ごめんなさい。いやだって、しゃあないじゃないですか。
席に座った時には針のむしろ。
ようやく会議が終わるという頃にはすっかり意気消沈。せめて明日も今日の残りに追われることがないように最低限のことは片付けて会社を出た。
そんなこんなを思い出させてくる昨日の残骸の残った机の前に座る。今日中に仕上げねばならない仕事ではあるが、別に終わらない量のものではない。ただ憂鬱というだけだ。向こうで一心不乱にスマホで遊んでいる早瀬が少し羨ましく映った。
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