華麗にともに去りぬ

黒川未々

1皿目

 カレーが嫌いだ。虫酸が走る。


 カレーが嫌いだというと、みんな驚く。理由を聞かれる。味も匂いも、嫌いだよ。みんなが他の食べ物を嫌うのと同じだ。ぼくからしてみたら、なんで、みんなは食べられるんだろうって思う。特に家庭のカレーがどうにもダメだ。日本人向けに作られているって? 嘘つけ。

 だから、小学校の林間学校も苦痛だった。ビュッフェでお子様カレーを見かけるだけで、トラウマが蘇る。

 けれど、ここ数日、カレーと向き合っている。それは愛する女性との未来がかかっているから。

「カレーを食べさせてほしいの」

 そう言ったきみの美しさを、ぼくは今でも鮮明に思い出せる。ロイヤルブルーのドレスに、華奢な肩、細くて長い首、小さくてシャープな顎、吸い込まれそうなアーモンドアイ、控えめな唇。

 ぼく達は共通の友人の紹介で知り合った。冴えない、モテない、うだつの上がらない。ないない尽くしのぼくにはもったいない人。

「お店を紹介してもらうのはやめてね。それなら、貴方とはこれっきりだわ。貴方と私、ここが分水嶺よ」

 ぼくはギクッとした。そういう聡明なところも好きだ。会うときはいつも、その共通の友人に、おしゃれな店を紹介してもらっていた。

「貴方の作った、とびきり美味しいカレーを、私に食べさせて。そうしたら、私、貴方と結婚するわ」

 凛とした眼差しでそう言われて、ちょうど食べていた寿司のワサビが、つんとしみて、涙が出た。そうか、結婚できるんだ……ついに。

 知り合ってから二年になるが、ぼくときみは友人のままだ。きみと歩けるだけで幸せだった。美術館に行ったり、スポーツ観戦をしたり、映画を見たりしてから、ディナーをする。いつもこの繰り返し。若い頃のように、ガツガツしていない、大人の恋だ。きみの方から連絡もくれるし、ぼくから誘った時も会ってくれる。帰りはいつもタクシーでマンションの前まで。ぼくは紳士なんだ。

 きみを愛している。ウソじゃない。でもね、カレーが嫌いなんだ。よっぽど伝えようかと思ったけれど、きみを失うほうが怖かった。もしかしたら、好きになれるかもしれないじゃないか。

「わかった。一週間後に美味しいカレーをきみに贈るよ。約束する」

 こういうことは、遅らせれば遅らせるほど、ハードルが上がっていくのでは? 危惧したぼくは、そう宣言した。自分で自分の首を絞めている気もするが、ほんの一週間、カレーを我慢すれば、きみと結婚できるかもしれないわけだ。


 ――下北沢のイエローハウスに行ってみて。

 昨日、きみがそう言っていたから、今日は定時で仕事を切り上げた。

 てっきりカレー屋だと思っていたのだが、なんとライブハウスだった。芸人がライブをしているらしく、入り口でウロウロしていたら捕まってしまった。断りきれずにチケットを買って中に入った。全然おもしろくなかった。

 気を取り直し、チェーン店のカレーを食べてみようとした。でも、店に入ることすら無理だった。

 そのあとも、さまざまなカレーを試した。

 女性の好きそうな薬膳カレーの店に行ってみた。我慢はできたけれど、付け合わせのサラダと十六穀米のごはんしか食べられなかった。

 洋食屋、蕎麦屋、餃子屋のカレーも試してみた。耐性はついてきたけれど、相変わらずマズい。行く先々で、顔をしかめて食べるぼくは嫌な客だと思われたことだろう。


 五日目にして気づいた。

 待てよ、そもそも、作るのはぼくだよな? カレー嫌いを克服する前に、一週間が終わってしまう!

 慌てて材料を買い、カレーを試作してみた。大嫌いな家庭のカレーだ。なんて彼女思いな男だろう。食器は黄ばみ、匂いもこびりつくけれど、それでも粛々とカレーを作る。

 もしかして、きみは、ぼくの部屋に来たかったのかな? カレーは口実か?

 自慢じゃないけれど、ぼくはなかなかの部屋に住んでいる。いつか誰かと暮らしたくて、新築を買った。一人暮らしが長いから、掃除や洗濯や料理もこなすことができる。ただ、ぼくの背がもう少し高ければな。髪がふさふさだったらな。顔にほくろなんかなければな……悲しくなってきた。心なしかカレーも、どろどろしてきたような。この部屋に来てもらえば、きみもぼくとの未来を考えてくれるかもしれない。

 きみは慈愛の人だと思う。料理がどれだけ奥深いものかもわかっているはずだ。素人が今から作るカレーなんて、たかが知れている。ぼくが作ることに意味があるのかもしれない。もっと、ぼくのことが知りたいのかな。


 日曜日、初めて部屋にきみが来た。奮発して高いワインを買った。念のため、歯ブラシセットや女性用の部屋着も用意した。掃除も、いつもより念入りにした。

 紫玉ねぎと人参のサラダを出して、ワインに合いそうなチーズやクラッカーも皿に盛って置いた。カレーだけではどうにも心許なかった。

 白い皿に、白いご飯を端によそい、そこに中辛のチキンカレーをかける。肉以外の具材はなるべく細かくした。カレーは飲み物らしいから。

 ぼくが向かいに座ると、きみは微笑んだ。おしとやかに「いただきます」と小さく言って、スプーンを持ち上げる。ルーだけ掬って、一口飲んだ。

 いや、一口、小さいなっ! でも、それも可愛い。

 もう一口食べた。今度はごはんと一緒に。食べられないほどマズいわけではないようだ。

「貴方は食べないの?」

「ぼくは味見したから」

 そして、食欲がなくなった。

「そんなに見られてちゃ食べにくいわよ」

「こうしてずっと、見ていられたらな……」

 つい、本音が漏れた。目が合う。テーブルの下、拳を固く握って、あの凛とした瞳を正面きって見つめ続けた。いつもなら、恥ずかしくて手元のお酒を飲んだりしてごまかしていた。

 先に逸らしたのはきみの方だった。居住まいを正して、また、ぼくを見る。その瞳の中で、夕闇も、ぼくも、揺れていた。

「貴方とは結婚できない。私のことは忘れてください」

 きみは、やっぱり、美しい。今日はいつもと違う服装で来てくれていたんだね。きっと、どんな服でも、きみはきみだ。

 アイスブルーのシャツの前を少し開けて、上品なネックレスをつけて、いつもきれいにまとめられていたロングヘアは、無造作におろしていた。

「本当は、カレー、大っきらいなの。ごめんなさい。今までありがとう。さよなら」

 ぼくは、ただ、見とれていた。引き留めるには美しすぎたし、ぼくは若くなかった。身の程を知りすぎていた。

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