第一章 満月に至るまでの日々 七

 クザニス橋を望む事ができる丘に着いたときには、陽が落ちかけていた。

 信じられる光景ではなかった。いや、あるいは、心のどこかでずっと予期していたのかもしれない。この平穏が、あまりに脆い硝子細工であることを。

 どうして……。

 アラニエの言葉は音にならず、喉の奥に滑り落ちた。

 クザニス橋が燃えている。

 生温かい風に、木材が激しく焼ける匂いが入りまじっている。

 まとめ切れなかった後れ毛が、熱を得て吹き上げる風に巻き上げられる。熱いからではない、内側からにじみ出る冷や汗が、ほつれ毛を顔に貼り付かせる。

 橋だけではない、カラカスの集落からも、黒煙がたなびいている。あの、今火の粉の吹き出た建物は、学校ではないか。そしてあの場所は、私が生まれ育った館ではないか。風は吹き抜けるが、底冷えするような疑問が心中に次々と降り積もる。

「どうして、……」

 狂ったように道を引き返したアラニエに付いて来た者が三人居た。カルコという少女、ヨウクンという青年、それから、白い犬だ。カルコとヨウクンはアラニエと共にカラカスから出立して、どちらもケナガウマに乗っていた。ケナガウマなら崖も駆け下りることができるから、商団の誰かがアラニエ達を追ってくれていても、到底追いつく筈がない。

 二人はアラニエの独り言に答えなかった。言葉に気づいていても、答えるのが躊躇われた。カラカスが燃えている、と口に出した瞬間、それが事実になってしまいそうな、緊張があった。

 犬が、吠える。誰もが、この惨状を事実として受け入れられずにいる。

 なぜ、どうして、カラカスが……。

 兄は。

 父は。

 皆は。

 ……。

 巨大な木の骨組みが軋む音が、ことのほか大げさに響き、クザニス橋は中央から折れ曲がる形でうねった。橋の断末魔だ。そんなものは始めて聞いたが、まるで龍の咆哮だ。随従の一人が、怯えて悲鳴を漏らした。木材や金属が熱で伸縮し、奇妙にうねっている。死にゆく巨竜が最期に天へ向かって自らの灼熱の鱗を撒き散らしているかのようだ。

 私は、マカンベリーへ行く所で……。

 マカンベリーには、婚約者がいて……。

 はじめて、その顔を見る筈で……。

 なのに、生まれ故郷が燃えている。

 

「母さん、父さん、ナーナ……」

 呟いたカルコの脳裏に浮かんだものが何なのか、想像するまでもなかった。

 ヨウクンは神学校の生徒だが、カルコはカラカスで育ち、ここに家族がいる。彼女を乗せたケナガウマは、アラニエの目の前で猛然と丘陵から跳ね飛んだ。

「待って、カルコ、待って!行っては駄目よ!」

 アラニエは、ほとんど反射的にその後を追った。カルコは、この度自ら申し出て付き添ってくれた。ケナガウマの世話もできるし、長旅に慣れているからと。

「行ってはいけないわ!そんな橋に乗ったら、落ちてしまう!」

 燃え落ちる橋の先に何が待っているかなど、彼女には考える余裕がない。ケナガウマの跳躍は川を越えられない。なのに、火に身を投ずるよりもおそろしいことが、彼女を先に燃やし尽くそうとしている。カルコを止めなければ!優しい彼女を死なせてはいけない!その一心で、アラニエ自身もエルの手綱を引き、故郷に向かって跳躍していた。

 エルはアラニエの心の叫びを汲み取り、躊躇なく燃える橋のたもとへと突き進む。軽々と、蹄が硬い土を蹴る音が、この地獄のような喧騒の中では空虚に響いた。

 橋は今や、神話の終わりに登場する巨大な獣であった。天罰の槍に心臓を貫かれて断末魔の叫びをあげているかのように、ごうごうと地を揺るがす音を立てて炎が夜空を舐めている。

「カルコ、待って!」

 アラニエの声も届かず、カルコを乗せたケナガウマは、一筋の矢のように獣に突進し、煙の間に消えた。

「カルコ!」

 煙が、鼻と目を焼く。熱をはらんだ突風が、アラニエの頬を鞭打ち、露になった肌をちりちりと焦がした。慣れ親しんだはずの谷の空気に、古い木材が焼け焦げる異臭と、建材に使われた松脂が爆ぜる甘い香りがする。アラニエの叫びは届かない。

「姫様、大丈夫ですか」

 後ろから追いついてきたヨウクンが、アラニエよりは落ち着いた様子で声を掛けた。

「ああ、ヨウクン、どうしよう、カルコが!橋が落ちたらあの子も死んでしまう!」

「ケナガウマは軽いですから、真っ直ぐ脇目をふらず、跳ぶように跳ねて走れば、案外渡れるかもしれません。この橋は頑丈だ、職人と神の加護がある。それを信じましょう」

「ああ、カルコ……どうか……」

「姫様、それよりも、お下がり下さい、どうか。僕には剣の腕がない、お守りできないかもしれない」

 ヨウクンが、アラニエと橋の間に入った。額に汗が滲んでいる。

「ヨウクン、何を言って……」

「対岸の様子がよろしくありません」

 正気を失った炎が荒れ狂う音と、木が熱に呻く悲鳴の間、高い金属音が混じった。

 カルコの安否を知りたい一心で、煤に炙られながらも目をこらしていたアラニエの視界を、人影がかすめた。

「え?」

 研ぎ抜かれた剣身に炎が映り込み、鮮やかに翻る。黒煙が渦を巻き、視界は劣悪だ。その向こうに揺らめく人影が二つある。一つは、アラニエが物心ついた頃から見慣れた、しなやかな背中だった。チュリマスだ。抜き身の剣を構え、誰かと対峙している。相手はこちらに背を向けているうえ、煙のせいで判然としない。

「チュリマス……」

 剣の擦れ合う音。轟音にかき消される衣擦れ。こんな状況下でさえなければ、祝祭のために剣舞の稽古でもしているのかと聞き間違えたかもしれない。一瞬だけ、脳裏に日常がよぎる。御前試合の美しい立ち振る舞い。必ず剣を帯びていたチュリマスの日常。

 彼女の繰り出す剣閃が、燃え盛る炎の光を反射して、一瞬だけ夜の闇に鋭い三日月を描くのが見えた。その太刀筋に、一切の迷いはない。剣舞などではない、常に相手を殺そうとしている。

「だ、誰と……戦っているの?わかる?」

「煙で見えませんね」

「あの男が、橋を……燃やしたの?」

 その時、巻き上がる黒煙を断ち割って、カルコを乗せたケナガウマが突進した。

 背中を丸めてケナガウマにしがみつくカルコの姿が、チュリマスにもわかったようだった。目を見開き、巧みな足捌きで下がり、体を反らした。一瞬の揺らぎが見逃されなかった。瞬間、闇の中から音もなく伸びた銀色の線が、まるで獲物を狙う毒蛇のように、彼女の肩から脇腹にかけて、袈裟懸けに走った。

「チュリマス!!」

 アラニエは、無意識に駆け寄ろうとした。それを、ヨウクンが引き留めた。

 チュリマスが一瞬だけこちらを向いた。驚愕に見開かれた目が、炎に照らし出される。その瞳の奥に、一瞬、安堵のような色が浮かんだのを、アラニエは見逃さなかった。

「アラニエ様!」

 その声は、なぜ戻ってきたのですか、という叱責と、どうしてお逃げにならなかった、という悲嘆、そして、ご無事でよかった、という母のような安堵が複雑に混じり合っていた。

「チュリマス!」

 アラニエの絶叫が、燃える谷に木霊した。チュリマスの体から力が抜け、まるで糸の切れた操り人形のように膝から崩れ落ちるのが見える。今すぐに、支えたい。だが、業火が道を阻む。チュリマスは、彼女に残る最後の力を振り絞り、その燃えるような瞳でアラニエを捉え、叫んだ。

「お逃げ下さい、アラニエ様!」

 彼女の体は、ぐらりと傾いた橋の欄干と共に、燃え盛る木片や無数の火の粉を道連れにして、眼下の暗い川へと吸い込まれていった。

 水面に叩きつけられる音すら、炎の轟音は許してはくれなかった。チュリマスの存在は、まるで初めからそこになかったかのように、あまりにもあっけなく、この世界から消え去った。

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