第一章 満月に至るまでの日々 六
荷物が整えられ、贈り物が積まれた荷馬車と共に、アラニエが出発する日が来た。
できる限り荷物を少なくするため、ここに来たときのデミルのように服を重ねた。一番下に、母の礼服を着た。ケナガウマの毛で織られて、どのような祭事にも着ることができるように、深い黒で染めてある。
長い髪を括り、身分がわからないよう、粗末な布で頭を巻く。大事なエルの手綱にも同じ布を巻いた。真冬用の外套まで着込んだので、懐にそっと仕舞った護衛刀と氷杏の種は、外からはまるでわからない。
父に挨拶をするため、最上階を訪れた。夕べまで長い酒盛りが行われていたが、こざっぱりと整えられている。
病気の父は杖をつきながら、籐椅子に腰掛けていた。アラニエは父の膝に頭を寄せ、そっと撫でる手を感じながら、必ず幸せになると約束した。そのような行動に神経質なギノも、何も言わなかった。
ギノとデミルが、大橋まで見送りに来てくれた。従者と商団はもう荷造りを終えて、橋の向こうで待っているので、三人だけだ。少し寂しい気がした。子ども達が起きていれば、ほかほかになるまで集ってくれただろうに。
まあいいわ、とアラニエはすぐに気を取り直した。春に、夫となる人と共にカラカスを訪れたときに、改めて祝われることになるのだろう。祝い事は、春に。悲しみは冬に。それが習わしである。
「習わしっていうのは、いいわね。この世で一番良い言い訳よ」
息が白くけぶる。おもむろに、ギノが懐から小瓶を出した。下の方に、黒ずんだ亜林檎が沈み、発光して細い糸のような泡を出している。
「ギノ、おまえ、何本くすねた?」
と、デミルが笑った。
「ここにあるのは一本だけだ」
「ここにはってどういうこと?」
と、アラニエが吠えた。
「兄様ってば!あれだけ私にしつこく持参品の確認をさせたくせに!」
「道理でつるぎとりの間でも上着を脱がなかったわけだ。お前みたいな堅物が、身内だけとは言えおかしいとおもったんだよ」
「乳母日傘の坊ちゃんに全部くれてやるのはもったいないからな」
そう言いながら手早く小刀で栓を抜き、アラニエに差し出した。
「私、お酒飲んだこと無いわ」
「なら、今日がはじめてだ。おめでとう」
「兄さん、そんな屁理屈、いつもなら絶対に言わないのに」
「今日だから、言うんだろう?ギノ」
デミルが優しくそう仲介した。
「祝いを言ってはいけないことになっている。顔見せだからな。春に祝いの席が設けられるから、言祝ぐのはそのときだ。俺も、その時につるぎを受け取ることになっている」
「じゃあ、次に会うときはつるぎとりとして会うということ?」
「父に何も無ければ」
促されるまま、小瓶に口をつけた。熱い液体が僅かに香り付いている。喉に落ちる前に、鼻につんときて噎せた。
「アラニエ、どんなことがあっても幸せになれ」
とギノは言って、水でも飲むかのように酒をぐいぐい飲み、デミルに渡した。デミルも一口、儀式のように飲み込んだ。
橋の向こうから、もう随分親しくなった白い犬が駆けてきて、アラニエを迎えてくれた。
朝焼けは清潔で、少し寒い。
マカンベリーへと向かう一行の馬蹄の音が、硬く凍てついた大地に高く、規則正しく響き渡る。商団に沿うようにして、ソガン王国への貢物を満載した荷馬車が、重々しい車輪の音を立てて進んでいく。カラカス酒の芳醇な香りが、時折、冬の澄んだ空気の中に漂う。
愛馬エルの温かい背中に身を任せ、時折、遠ざかっていく故郷の山々を振り返った。峻厳でありながらも、常に自分たちを見守ってくれていた山並。その輪郭が、距離を置くごとに淡く、そして小さくなっていく。
胸に冷たい風が吹き抜ける。しかし、感傷に浸っている時間はない。彼女はすぐに気を取り直し、きつく唇を結んで前を向いた。自分は、カラカスの未来を背負った、和平の使者なのだから。その重責が、彼女の背筋を凛と伸ばさせた。
「その犬は、姫様が随分お気に入りのようですな」
馬の背から、ルーマスがそう話しかけてきた。白い犬はずっとエルの側を離れずに居る。
「私の周りにいることを気に入ってくれているんですね」
「カラカスに居るときからそのようで、申し訳ない。これが人の男だったら、放り出すところですが」
「嫌じゃ無いわ、おじ様。ずっと、この子の名前を知りたいと思っていました」
アラニエは、ルーマスのことをおじ様と呼んでいる。
「名前は付けていないのですよ、この犬たちも商品ですから。番犬が必要な人は割合多いですし、そういう人は既によく躾られて言うことを聞く犬をほしがっている。キャラバンに置いて番犬を務めたというのは、この犬たちにとっては随分良い看板になるのです」
「では、この子も、どこかの家に買われていくのを待っているのですか」
「そういうことになりますね。うちにいる犬はそこらを心得たものが多いですが、まあ、その白いのは、わかっているのかいないのか……可愛げだけは一番ですね」
カラカス酒の芳醇な香りが、時折、冬の澄んだ空気の中に漂い、先ほど喉を焼いた一口を思い出させた。
ごつごつとした岩肌が剥き出しの、荒涼とした大地がどこまでも続くことに、箱入りのアラニエの心は騒いだ。木々はまばらになり、その枝は寒風に耐えるように、苦しげにねじ曲がっている。まるで、世界の果てへと向かっているかのような、心細さを覚える光景だ。人の営みがある場所とは全く違う。
昼過ぎに小雨が降り、大岩が屋根になっている場所で休憩をとった。ふかしておいた冷たい芋と林檎を貰った。エルに体をもたせかけて、葉をかぶせて光を抑えた炎を見ていると、白い犬があらわれ、アラニエに寄り添った。犬のにおいがするのは悪くない。アラニエは小さく、「パック、アーティー、ペンテウス……」と、思いつく度名前を呼んでみたが、白い犬は呼ぶ度アラニエをしげしげとながめ、また目をつぶる。アラニエもうとうとと微睡もうとしたところ、はるか向こうの丘陵の更に向こう、奇妙な黒い煙が立ち上っているのを目にした。自然の煙ではない。空に引きずるような痕をつけながら、真っ直ぐ進んでいる。何か巨大なものが、大地を這いながら動いているかのようだ。
「あれは何でしょう?」
アラニエが、隣で休んでいた商団の誰かに問うと、彼は目をすがめて、眉をひそめ、「ああ、鉄道ですね」と答えた。
「てつ……何ですか?」
「鉄でできている大きな荷馬車みたいなもので、この乾燥地帯に長い線路というものを敷き、その上をおそろしい速さで行き来します。荷物や人を大量に運べます。おそらく、陽国の沌院鉄道でしょう」
その言葉と時を同じくして、獣の咆哮にも似た、低く、地を揺るがすような不気味な音が、うっすらと風に乗って聞こえてきた。生き物の声とは明らかに異質で、聞く者の腹の底を震わせるような、無機質な響きを持っていた。それは、自分たちの知る世界の秩序を、根底から覆すような力の象徴のように感じられた。
「あれは、どこへ行くのでしょう」
「さあ……。噂では、砂漠を夜通し走り続け、遙か東の国へと繋がっているとか。その国には雪は降らず、一年中あたたかい海で人々が泳いで暮らしているそうですよ」
「海……」
読んだことはある。本の中で。実在するものだと知ってはいたが……。
自分がこれから行くマカンベリーとも、故郷カラカスとも全く違う世界だ。あの、黒煙の元にある、鉄の荷馬車に乗れば、そこに着くのだという。
その事実は、山に囲まれ、厳しい冬と共に生きてきた彼女に、今まで感じたことのない種類の憧れを呼び起こした。
小雨が止んで異動を再開して間もなく、後方を警護していた傭兵の一人が、まるで何かに追われるように、血相を変えて馬を飛ばしてきた。その尋常でない様子に、一行の間に緊張が走る。彼は、ルーサムの横に馬を付けた。馬が興奮しているのをいなしながら、彼の耳元に囁いた。瞬間、ルーサムの表情が強ばった。
「もう一回言ってみろ、俺の聞き違いかもしれん」
「カラカスの大橋が燃えているのを、最後尾で確認した」
「事実か?この時期、自然発生する小火はよくあることだ、見間違えたのではないのか」
「俺だけじゃない、後備えが全員見てる。橋だ、橋が燃えてる」
混乱を引き起こさないための、密かで簡潔なやりとりであった。だが、アラニエの耳に突き刺さった。橋が?燃えている?なぜ?何のために? アラニエの頭の中を駆け巡った。アラニエはエルを促して、ルーサムの横に付けた。
「おじ様、今なんと仰いました」
「姫様……」
「クザニス橋が燃えているのですか?今、そう仰いましたか?おねがい、教えて下さい」
「姫様、落ち着いて下さい」
報告した若い男も、ルーサムも、どう言おうかと悩んでいるのがわかった。
兄の顔、デミルの顔、民の顔が、次々と浮かんでは消え、心臓を鷲掴みにして離さず、
「いけません、姫様!」
ルーサムの声が後ろに聞こえたが、既にアラニエは単身商団を飛び出し、カラカスへ走り出したところであった。
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