第2話 途絶えかける
粉微塵に砕けた僕は、魂だけが宙を彷徨った。
「何してるの、君」
「へ?」
声がして振り向く。そこには、スヌーピーの着ぐるみを着た変なおじさんがフヨフヨ浮かんでいた。
「ギャハハッ! なんだよおっさんその格好は!」と笑ってやったら、「おじさんはねぇ……変な格好をして、みんなに笑われるのが大好きなんだ」と云って息を荒くした。
僕は背骨を折られたマントヒヒみたいな悲鳴を上げて後退り、一歩下がる度におじさんは一歩近寄ってきた。
「ね、ねえ。やめて、来ないで……!」
「逃げないでよ。別に何もしないって」
「……嘘吐きめ! これ以上、僕に近寄るんじゃねえよ……!」
「君も、息を荒くしてるじゃないか」
「してない!」と僕は天に向かって叫び、そのせいか知らないけど、天罰が下った。
「あ」とおじさんは声を漏らし、僕に素早くスヌーピーの着ぐるみを着せた。漂う汗と体臭に、僕は心肺停止に至った。
いきなり落下してきた光の柱は僕を貫いたけど、くっせえ着ぐるみのおかげで無傷だった。僕は悔しかった。こんな変なおじさんに魂を助けられるなんて、一生の不覚でも到底足りないくらいの不覚だった。
僕は涙を堪え、「あ、ぁ、ああ……あっ、あっ、ありあり……ありがと、ぅ……」と顔を紅潮させ吃りながら云うと、おじさんは僕をビンタして「感謝の言葉なんていらないよ。おじさんはねぇ……感謝されるよりも侮辱されるほうが大好きなんだ」と云って、鼻から長く息を吐いた。
僕はまた吐きそうになった。僕の周りには、頭のおかしい奴しかいないんだ。こんな人生、嫌やっ! と思ったものの、そういえば僕は粉微塵になって死んだんだと思い出した。
「まぁ、とにかく。その着ぐるみを脱いで。自分で脱げないんだったら、おじさんが手助けしてあげようか?」
僕は中指を立て、絶望という言葉が相応しい汗と体臭からおさらばするためにさっさと脱いだ。それは、最後にヌルリとした後味を残した。
「で。君、何してるの」とおじさんは云った。僕は一刻も早くこの場から去りたかったけど、魂だけではそれほどスピードが出せないので、結局すぐおじさんに捕まってしまうだろうことは想像できた。
どうしたらいいの? 僕の魂は震えた。僕の唇の隙間から次々に出てきた小さな阿弥陀仏たちは、哀れみの表情を浮かべ、僕に話しかけてきた。
「可哀想に……」
「可哀想って、僕の顔のことか! おいコラ」
「違うよ」
「違う違う」
「じゃあ僕の頭のことか! コラ」と僕は激怒した。けれども、また天罰が下ってきそうな気配がしたから、どうにか怒りを抑えた。急速冷凍。
阿弥陀仏たちは全員、同じような薄っぺらい布みたいなものを巻いているだけで、失職したばかりの浮浪者みたいだった。そんな彼らの手にはそれぞれ、異なる味のポテトチップスの袋があった。彼らは暢気そうにパリボリと口に入れては噛み砕いている。僕は涎を垂らしながら云う。
「それ、ちょうだい」
阿弥陀仏たちは乾涸びたレモンみたいな顔になり、口々に嫌だ嫌だと云い出した。
「嫌だ嫌だ」
「嫌だ嫌だ」
「嫌です」
「嫌だ」
四体の阿弥陀仏は嫌だ嫌だと連呼したけど、残りの二体は顎をさすって何か考えている。「……どうする?」「どうしよう……」「あげちゃう?」「どうしよう……」「あげちゃおう」「……うん」
どうやら話は決まったようで、二体のよく似た阿弥陀仏がすすすと近づき、僕に『うすしお』と『関西だししょうゆ』の袋を差し出した。
僕が手を伸ばしたところで、スヌーピーの着ぐるみを着直した変なおじさんが僕の腕を掴んだ。
「食べちゃ駄目だ」
「……なんで?」
「食べちゃ駄目だ」と再び云い、首を振った。それからおじさんは、僕に差し出されたポテトチップスを徐に口に入れた。
「は?」と僕は目が点になる。両目が痙攣を起こしたように震え出し、僕の魂は二つに分裂した。分裂したもう一人の僕は、周囲に漂う阿弥陀仏たちを一体ずつ捕まえては食べ、捕まえては食べた。
「ああっ」
「嫌だ、嫌だ」
「嫌だ……」
「ほ、仏様を喰らうなんて! なんて罰当たりな野郎なんだ! 恥ずかしいと思わんのか!」と僕はなんとなく激昂した。僕は仏について何も知らないのだ。
もう一人の僕は笑顔を浮かべ、「良いじゃん。どうせこいつら、僕の口ん中から出てきたんだから」と云った。「それもそうだね」とおじさんは頷き、スヌーピーの着ぐるみを脱いで僕に着せ、おじさんはその下の下着も脱いで全裸になった。
おじさんの胸毛や手足の毛、陰毛は、もう一人の僕の髪色と同じベージュ色だった。けれども、おじさんの薄くなった髪は白髪混じりの黒だった。
僕は女の子みたいに「きゃあ〜」と黄色い悲鳴を上げながらおじさんの白髪を一本一本抜いていった。
「おりゃっ」
「あ、いてっ」
「おりゃっ」
「あ、いてっ」
「おりゃっ」
「あ、いてっ」
「おりゃっ」
「あ、いてっ」
「おりゃっ」
「あ、いてっ」
「おりゃっ」
「あ、いてっ」
「おりゃっ」
「あ、いてっ」
「おりゃっ」
「あ、いてっ」
「おりゃっ」
「あ、いてっ」
「おりゃっ」
「あ、いてっ」
「おりゃっ」
「あ、いてっ」
「おりゃっ」
「あ、いてっ」
「おりゃっ」
「あ、いてっ」
「おりゃっ」
「あ、いてっ」
「おりゃっ」
「あ、いてっ」
「おりゃっ」
「あ、いてっ」
たぶん十六本くらい抜いた僕は、分裂したもう一人の僕のシャツを掴んでパンチとキックを十六回くらい食らわせて阿弥陀仏たちを一体一体吐き出させた。
「おりゃっ」
「ぐえ」
「あ〜」と声を上げて阿弥陀仏が口から飛び出る。
「おりゃっ」
「ぐえ」
「おりゃりゃっ」
「ぐえ」
「おりゃあ〜」
「ぐえ〜」
「おりゃっ」
「ぐえ」
「あ〜」と声を上げて阿弥陀仏が口から飛び出る。
「おりゃっ」
「ぐえ」
「おりゃっ」
「ぐえっ」
「あ〜」と声を上げて阿弥陀仏が口から飛び出る。
「おりゃっ」
「ぐえ」
「おりゃっ」
「ぐえ」
「おりゃっ」
「ぐえ」
「あ〜」と声を上げて阿弥陀仏が口から飛び出る。
「おりゃっ」
「ぐえ」
「おりゃっ」
「ぐえ」
「あ〜」と声を上げて阿弥陀仏が口から飛び出る。
「おりゃっ」
「ぐえ」
「あ〜」と声を上げて阿弥陀仏が口から飛び出る。
「おりゃっ」
「ぐえ」
「おりゃっ」
「ぐえ」
「おりゃあ」
「ぐへえ」
「あ〜」と声を上げて阿弥陀仏が口から飛び出る。
七体目の阿弥陀仏が口内から飛び出してきたとき、もう一人の僕は電源を落としたテレビ画面みたいに全身が闇に染まり、溶けるアイスみたいに人の形を崩していった。
僕らしく「あへえ〜〜溶けるう〜〜」と昼間に降る小雨のように情けない顔つきで、彼は宇宙の隅っこに存在する限りない暗闇が持つ巨大な重力に潰されるように姿を消した。
僕は宇宙の暗闇について想像力を働かせ、手前勝手に身体を震わせた。手やら足やらをストレッチさせないと落ち着けない感じに、僕の身体はむず痒くなっていた。
謎の七体目の阿弥陀仏さんは、他の六体よりも遥かに筋骨隆々で美しい肉体を有していた。しかも、太陽の光をすべて吸収してしまったような輝きを湛えた碧眼だった。
「あは」と焦点の定まらない眼球をグルグル回したムキムキ仏は、「あほ」と云って僕の眼球を取り外した。「あほ」と再び云って、僕の眼球を握り潰した。
僕は眼球を失ったままで、ゆっくりと慎重に目蓋を閉じた。
「──なあ、ヨモギちゃん! 聞いてる?」となんだか聞き覚えのある声が聞こえ、恐る恐る目を開くと、眼前にK太朗の心配そうな顔があった。
「……ヨモギ……?」とぽつりと言葉を零す。
「ああ、ヨモギちゃん。大丈夫? どこか体調でも悪い?」とK太朗の声だけは爽やかだった。
「似合わねえよ」
「え? ヨモギちゃん?」
「僕はヨモギじゃねえよ、K太朗」と僕は云った。
「……? いや、どう見たってヨモギちゃんでしょ」
「お前。僕と妹の顔を間違えんじゃねえよ。ぶっ殺されてえか!」
なんとなく腹を立てた僕は、いやに下半身がスースーするなと思って頭を下げると、K太朗のグロテスクなペニスが僕のヴァギナの中に入っていた。「────!」と声にならない声を上げ、降って湧いた天啓に導かれる修行僧のように慌ててペニスを抜き、近くに脱ぎ捨てられたパンツとスカートを仕方なく穿いて空き教室を出て昇降口へ向かった。
僕は走った。転げた。転げて階段を滑り落ちて肝臓が破裂したけど気にせず立ち上がり、静電気を纏う精霊を呼び出して治癒させて、僕は万全の状態に戻りつつ走り続けて昇降口で靴を履いて外へ出て裏門に向かう。
職員室の前の駐車場をタコタコ走っている途中、空き教室で妹の愛液をペニスに塗りつけてオナニーしていたK太朗が、窓を開けてこちらに手を振ってくる。ちらりと見ただけで無視すると、K太朗は口を開く。
「おーい! もう出そう! ヨモギちゃ〜ん、出して良いかなー?」
「…………」
「ねー! 無視しないでよー!」
「…………」
「ハルトちゃーん!」
「うるさいて」と呟き、僕は裏門近くで熟れすぎて無惨に破裂したトマトのような
かつての僕の肉の器のそばでは、僕の肉体が死ぬ直前に出会った小学生の女の子がしゃがみ込んで何やらやっている。僕は僕自身をまあまあ気に入っていた。気に入ってはいたし、その肉体がズタボロに崩壊しているのを視界に入れるのは辛いといえば辛かったけれど、新しい器を手に入れた今、特にこれといった感慨は浮かばなかった。
辛かったことも悲しかったこともムカついたことも、苦しかったことも楽しかったことも何もかも、僕はすぐに忘れてしまう。とはいえ、今までの人生で死にたいほど辛かったことなんてないに等しい。
てことはね、僕は非常に〜幸福だった、てわけ。
けどまあ、妹の肉体はちょっと不安とか不満がなきにしも非ずだけど、それは困ったことになったときに考えれば良い。
備えあれば憂いなし。正しい言葉だと思うよ。でもね、僕にはいらないかな。
どうせさ、みんな死ぬんだぜ? どれほど幸せな生まれ方をしても、どんなに不幸せな生まれ方をしたって、最期はみんな同じってなんか面白くない? とかゴチャゴチャ思いながら到着。僕は女の子にビクビクしながら話しかける。
「ね、ねえ、女の子ちゃん……」
パープルのランドセルを背負った女の子は、突然話しかけてきた僕をじっと見た。
「お姉ちゃん? お兄ちゃんのお姉ちゃんですか?」
僕は堂々と頷いた。女の子は島田ハルトと島田ヨモギの顔を見比べるように目線を移動させ、「似てるような……似てないような……」と云った。
事実としてはハルトとヨモギは兄妹だけど、これからは姉弟という
僕は両方の手のひらをぴったりとくっつけ、「ティンパソワカ、ティンパソワカ、ティンパソワカ」と発した。
嘘つきによる自伝 叢上友哉 @hiroto_07
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