第三十三話:死者の代弁

 新しい週が始まった。


 彩星芸術学園は、いまだ警察の厳重な管理下にあり、生徒たちは、無期限の自宅学習を命じられていた。だが世界は、何事もなかったかのように回り続けている。未央の部屋の窓からは、けたたましい蝉時雨と、通勤ラッシュのクラクションの音が、容赦なく流れ込んできた。


 日常と非日常の境界線が、曖昧になっていく。


 未央は、机の上で一冊のノートを開いていた。昨夜、佐伯の母親から託された、彼の遺品。工具で無理やりこじ開けた、その小さな鍵付きのノート。それはもはや、単なる証拠品ではなかった。一人の人間が生きて、悩み、そして死んでいった、その魂の記録そのものだった。


 ページを一枚、また一枚と、めくっていく。

 そこに記されていたのは、未央が想像していたような、単なるアノニマスに関する調査記録だけではなかった。

 あったのは橘陽菜のその才能に対する、ほとんど信仰に近いほどの、深い、深い敬意の言葉だった。


『彼女は本物だ。俺や親父のような、権威や評価に媚びへつらう”偽物”とは違う。ボトルの中に閉じ込められた、本物の怪物だ』


 その賞賛の言葉の裏側には、彼自身の芸術に対する苦悩と葛藤が、生々しく綴られていた。

 高名な芸術家である父親への、反発。商業主義に汚染されていく美術界への、絶望。そして、自分自身の才能の限界に対する、焦り。


 彼は陽菜の中に、自分たちが失ってしまった、純粋な芸術の可能性を見ていたのだ。

 そして、ノートの後半。そこには、彼のあまりにも若く、そしてあまりにも傲慢だった、救済計画が記されていた。


『彼女を、このままアンダーグラウンドの神にしておくのは、罪だ。俺が彼女を、このボトルから解放する。そのためには、一度彼女の脆いガラスの世界を、外から叩き割ってやるしかない』


 その最後のページを、閉じた時。

 未央の頬を、一筋の涙が伝った。


 なんて愚かで、哀しい男の子だったのだろう。

 彼は、陽菜を傷つけようとしたのではなかった。ただ、理解されたかった。自分と同じ、高みを目指す唯一の同類として、手を差し伸べたかった。

 その手が、彼女の聖域を侵す、最大の侮辱であったことにも気づかずに。


 未央は、誓った。

 このノートに記された、彼の本当の声を、必ず、世界に届けてみせると。



 ◇



 その日の、午後。

 未央は、溝口との約束の場所へと、向かっていた。


 とある公園の近くにある、古い喫茶店。ステンドグラスの窓から柔らかな光が差し込む、その静かな空間で、溝口は一人、紫煙をくゆらせていた。


「……来ましたか」


 未央が席に着くと、溝口は多くを語らず、一枚の写真をテーブルの上に置いた。

 それは、警察病院で撮影された、橘陽菜の写真だった。


 虚ろな、目。何の感情も浮かんでいない、能面のような顔。


「……これが、今のあの子です。完全に、心を閉ざしている。医師の見立てでは、裁判を維持できる状態に回復するには、数年……いや、あるいは、一生かかるかもしれない、との見立てです」


「……」


「我々は、怪物を捕らえた。だが、その怪物の正体を、誰にも説明することができない。これでは、ただのトカゲの尻尾切りと同義です」


 溝口は、そこで初めて、未央の目をまっすぐに見た。


「君が持っている、そのノート。佐伯 翔君の遺品、ですね?」


 未央は驚かなかった。この刑事は、すべてお見通しなのだろう。

 彼女は、黙ってノートを差し出した。


 溝口は、それを手に取ると、ゆっくりとページをめくり始めた。そして、すべてを読み終えると、深く息を吐き出した。


「……なるほど。最初の事件の動機は、復讐でも口封じでもなかった。拒絶、ですか。自分だけの神聖な芸術に対する冒涜行為への、報復。歪んだ、純粋さ。それこそが、彼女の本質だったわけですね」


 溝口は、この心理的な物証を武器に、最後の砦へと挑む覚悟を決めたようだった。


「……ありがとう。これで、あの本当の怪物と、戦える」



 ◇



 その本当の怪物は、今、何を思っているのか。


 橘美咲が収容されている、療養施設の一室。

 彼女の担当医は、頭を抱えていた。


 美咲は、外部からの情報を、完全に遮断されている。娘の逮捕の事実も、まだ彼女には告げられていない。

 だが、彼女の精神状態は、あの日を境に、明らかに変化していた。


 時折、誰に言うでもなく、楽しそうに笑う。

 そして、壁の何もない一点を見つめて、長時間拍手をし続ける。

 まるで、最高の舞台を鑑賞した観客のように。


 そして、もう一人。

 心を、閉ざした怪物。

 橘陽菜。


 彼女が収容されている、警察病院の独房。

 その日行われた、アートセラピーの時間。

 精神科医は、彼女の前に一枚のケント紙と、一本の鉛筆を置いた。


「……何でもいいんだよ。描きたいものを、描いてごらん」


 陽菜は、人形のように動かない。

 医師は溜息をつくと、他の患者の元へと向かった。



 数十分後。

 セッションの終了時間。医師が陽菜の元へと戻ると、彼女はやはり同じ姿勢のまま、座っていた。


「……やはり、ダメか」


 医師が、ケント紙を片付けようと手に取った、その時。

 彼は、息をのんだ。


 真っ白だったはずの紙の、ど真ん中に。

 一つの、完璧な目が描かれていた。


 それは、ただの目の絵ではなかった。

 怒りも、悲しみも、喜びも、すべてを超越した、絶対的な観察者の、目。

 紙の向こう側から、こちらをじっと見つめている、神の目。


 芸術家は、死んではいなかった。

 ただ、沈黙しているだけ。


 そして今も、この醜く滑稽な世界を、観察し続けているのだ。



 ◇



 夕刻。


 未央は、佐伯翔の墓の前に立っていた。

 蝉時雨が、まるで鎮魂歌のように鳴り響いている。


 彼女は、買ってきた一輪の、白い百合を供えた。


「……ごめんなさい」


 自然と、言葉がこぼれた。


「あなたを、理解してあげられなくて。あなたの本当の声を、もっと早く、聞いてあげられなくて」


 彼女はノートを取り出すと、その墓石の前に、そっと置いた。


「でも、約束する。あなたの物語は、私が必ず完成させてみせるから」


 その誓いを胸に、墓地を後にする。


 その時だった。

 ポケットのスマートフォンが、震えた。


 表示されたのは、知らないメールアドレス。

 怪訝に思いながら、そのメールを開いた未央は、その文面に凍りついた。


 件名には、ただ一言。


『佐伯剛三』


 本文は短く、そして有無を言わせぬ響きを持っていた。


『広瀬未央様』


『息子のことで、お話を伺いたい。あなたは真実を知っている、唯一の人間だ』


『メディアは、嘘しか語らない。警察は、何もわかっていない』


『私は、あなたに協力できる。私の持つ、すべての力を使って』


『連絡を待っている』


 佐伯翔の、父親。

 日本画壇の、頂点に君臨する、帝王。

 そして、このすべての悲劇の、始まりの引き金を引いた男。


 彼が今、自分に接触してきた。


 それは、強力な援軍の登場を意味するのか。

 それとも、この終わったはずのゲームの盤上に新たな、そして最も危険なプレイヤーが加わったことを、意味するのか。


 未央は、ただその画面を見つめることしかできなかった。

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