第三十二話:最初の証言者
街が、深い眠りについているその時間に、広瀬未央は、机の上の小さな明かりだけを頼りに、ペンを走らせていた。
昨日、自らタイトルを記した、真新しいノート。その第二ページ目に、彼女は、すべての始まりとなった記憶を、刻みつけていた。
『――神は、午前零時に、降臨した』
それは、橘陽菜がアノニマスとして、最初の殺人を犯す、ずっと前。誰もがまだ、その正体不明の才能を、純粋に信奉していた、あの頃の記憶。あの一枚の絵を、初めて目にした時の、肌が粟立つような興奮と、畏怖。
未央は、気づいていた。この、狂った物語の真実を語るためには、まず、その始まりにあった輝きと、純粋さから描き始めなければならない、と。そうでなければ、なぜ我々が、あれほどまでに一人の少女が作り上げた虚像に熱狂し、踊らされてしまったのか、その本質にはたどり着けない。
記憶を掘り起こす作業は、痛みを伴った。楽しかった陽菜との、何気ない会話。その一つ一つに、今となっては、悪魔の狡猾な伏線が、隠されているように思えてしまう。
だが、書くことをやめなかった。
言葉にする。構造化する。物語として、再構築する。
その行為だけが、混沌とした記憶の奔流に溺れかけている自分自身を、繋ぎ止める唯一の、錨だった。
◇
その日の、昼過ぎ。
未央のスマートフォンが、着信を告げた。表示されたのは、『非通知』の文字。一瞬、報道関係者からの無遠慮な電話かと身構えたが、受話器から聞こえてきたのは、意外な人物の声だった。
『……広瀬さんか。溝口だ』
その、深く疲れた声には、以前のような刑事としての、威圧感はなかった。
『非公式の電話だ。だから、録音はしてくれるなよ』
「……はい」
『君の、聴取書を読んだ。そして、君が我々に提出してくれた、すべての資料も見た』
溝口は、そこで一度言葉を切り、長く息を吐き出した。
『……君は、我々ができなかったことをやった。そのことについては、一人の警察官として、感謝している。だが、同時に君は、決して踏み越えてはならない、一線を越えた』
「……」
『これから、長い法廷闘争が、始まる。我々は、橘美咲という、目に見えない悪意と、戦わなければならない。だが、正直に言って、我々が持っている武器は、あまりにも少ない。綾波玲子の証言だけでは、あの母親の牙城を崩すのは、難しいだろう』
「……何を、お望みですか」
『君の力を、貸してほしい』
溝口の声は、切実だった。
『公式の証言ではない。ただ、我々が見落としている、橘陽菜という人間の心理の、パズル。その、最後のピースを埋めるために、君の視点から、話を聞かせてほしいんだ。君だけが、あの怪物の隣で、その素顔を見ていたんだからな』
それは、刑事と参考人という、関係を超えた、一つの奇妙な協力関係の、始まりだった。
未央は、静かにそれを受け入れた。
◇
自分の、物語を書く。
その決意は、未央に、もう一つの義務を課していた。それは、アノニマスという現象が、社会にどのような爪痕を残したのかを、正確に記録すること。
彼女は数日ぶりに、インターネットの深淵へと、再び潜っていった。
アノニマスを巡るコミュニティは、混沌の極みにあった。
信者たちの大半は、そのあまりにも醜い真実に絶望し、あるいは、激しい怒りを表明していた。自分たちが信じていた神は、ただの殺人者であり、模倣犯だったのだ。その、裏切りの大きさは、計り知れない。
だが、一部の過激な信者たちは、新たな神話を紡ぎ始めていた。
『アノニマスは、嵌められたのだ』
『彼女は、旧態依然とした美術界の権威に潰された、悲劇の天才だ』
『広瀬未央こそが、彼女の才能に嫉妬した、本当の黒幕だ』
荒唐無稽な、陰謀論。だが、その単純で熱狂的な物語は、真実を受け入れられない人々の心を、確かに捉え、じわじわと、その信者を増やしていた。
未央は、戦慄した。
陽菜は、捕まった。だが、彼女が世界に解き放った狂気のウイルスは、今もなお増殖を続けているのだ。
自分の戦いは、まだ、何も終わってはいなかった。
◇
病院の、白い壁。
桐谷海都は、ベッドの上で、スケッチブックに、ただひたすらに、線を引いていた。それは、具体的な何かを、描いているのではなかった。喜びも、悲しみも、怒りさえも、失ってしまった、自分の空っぽの心を、確かめるような、ただ無機質な、線の繰り返し。
病室のドアが、開く。
広瀬未央が、立っていた。
「……書き始めたんだ。全部」
未央が、静かに言った。
「そうか」
桐谷は、手を止めずに、答えた。
「先輩は?」
「……俺も、少しずつ」
彼は、自分が描いた線の迷路を、未央に見せた。
「……これが、今の俺だ。何もない。でも、ゼロでもない。ここから、何かをまた描けるのか。俺にも、わからない」
二人の、生存者。
一人は、言葉で。もう一人は、絵で。
それぞれ、違う方法で、自らの失われた魂の輪郭を、取り戻そうと、していた。それは、果てしなく、長く、孤独な、作業になるだろう。
だが、一人ではなかった。
そのことだけが、唯一の救いだった。
未央が、病室を出ようとした、その時。
背後から、声をかけられた。佐伯の母親だった。
彼女は、以前のような、険しい表情ではなかった。ただ、深く疲れた顔をしていた。
「……これ」
彼女が差し出したのは、警察から返却された、佐伯の遺品だという、小さな段ボール箱だった。その中に、一冊の古い鍵のかかった、ノートがあった。
「翔くんの……」
「息子が、言ってたわ。これは、あなたが持っているべきだ、って。あなただけが、このノートの、本当の意味がわかるはずだから、って」
母親は、そう言うと、深く頭を下げた。
未央は、そのノートを、受け取った。
ずしりと、重かった。
それは、ただの紙の束の重さではなかった。
佐伯翔という、一人の、誠実だった青年の、命の重さ。
彼が、最初に発した声。
この物語の、最初の証言者。
未央は、そのノートを、胸に抱きしめた。
自分の物語は、自分だけのものでは、なくなった。
彼の声を、世界に届ける。
それもまた、自分に課せられた宿命なのだと、彼女は、静かに悟った。
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