最終話。奈波と結末

 数年後。


「それじゃあ、みんな。またね」


 今日も私は配信を終えた。


「さてと、そろそろ構ってあげないと」


 配信部屋から部屋を移動をすると、廊下まで聞こえてくる音があった。本人は抑えてるつもりなんだろうけど、思いっきり聞こえていた。


「ちょっと、聞こえてるってば」


 扉を開けた先。ソファーに座りながら、澪音みおがギターを鳴らしていた。この家だと近所迷惑なんて気にする必要はないけど、わざわざリビングで鳴らす必要もない。


「ごめん」


 澪音の掠れた声。あれから、澪音は手術を受けて日常会話くらいは出来るようになったけど、その声に夢や希望を抱くことは、もう誰にも出来ないとわかっている。


 この世界から、エレンと呼ばれた存在は完全に消えてしまった。後に残ったのは、才能の高みを知っている女の子が一人。彼女がエレンであると気づける人間は世の中にはいないと思っていた。


「澪音。このコメント見て」


 スマホの画面を澪音に見せる。


「……っ」


 そこに書かれていたコメント。いつも私のお母さんの声が入ると、ネットに書き込んで笑っていたファンの一人。そんなファンのコメントに私は心が動かされた。


『ナナちゃんの曲作ってる人。エレンじゃね?』


 私と澪音が配信上で関わったのは、エレンがファンの悪口を言って炎上をした時の一回だけ。今も私と澪音の関係が続いていることは誰にも言っていない。


 なのに、この人は私の曲に関わってる人がエレンである澪音だと気づいた。適当なことを言ってるだけかもしれない。それでも、澪音の作る音は確かにエレンの才能に届こうとしていた。


奈波ななみのファン。変態じゃん」


「ちょっと、私のファンのこと悪く言わないでよ」


「だって、歌と演奏は別物でしょ」


 確かに普通なら同じ人の音だなんて気づけない。


「そのうち、また私は澪音に追い越されるかもね」


 私の配信者としての立ち位置は、ほんの少しだけチャンネル登録が多いという形で収まった。時々案件を受けることもあるし、澪音の演奏のおかげで想像以上に動画が伸びることもある。


 ただ、人気と言うには世間一般の認知度はかなり低いとわかっている。きっと、私の声を聞いてもナナであることに気づける人はほとんどいない。


「わたしは奈波よりも先を歩く気はないよ」


「澪音……」


 流れに任せて澪音に抱きつこうとしたけど、私は気づいてしまった。ここから見えるキッチンの方で動いてる人物がいることに。


「え、琴海ことみさん、いつからそこに……」


「ずっと、いましたよ」


 私が澪音と二人暮しを始めたのはいいけど、二人揃って何かに没頭すると、その日の食事を取らないことなんてざらにあった。


 そんな私達を心配して、こうして琴海が時々様子を見に来る。だいたいは決まった時間に来るから油断していた。


「お姉ちゃん、新しい仕事順調らしいよ」


「そうなんだ」


 エレンが正式に引退した後、琴海はしばらくは私のマネージャーとして働いてくれていた。ただ、元々エレンのマネージャーをやっていたおかげか、新しいマネージャーの仕事が見つかったらしい。


 ただ、琴海も私のマネージャーを辞めたわけではなかった。琴海が私の仕事を代わりに受けてくれるし、私が澪音と二人暮しが出来ているのは、琴海のおかげだった。


「琴海さん。今日って、何かありましたっけ?」


「これを渡してほしいと頼まれました」


 琴海が近づいてくると、私に差し出してきたのはライブのチケットだった。それはかつて、エレンがやった大規模なライブとは違い、ライブハウスで行われるような小さな。ううん。小さくて、とても大切なライブだと思った。


「これ、誰がライブするんですか?」


「奈波さんと澪音のよく知っている人物です」


「……っ」


 ああ、そうか。


「澪音の歌は、今も人の心に残り続けてるよ」


 あの文化祭の日、澪音の歌に心を動かされたのは私だけじゃない。同じステージに立って、同じ場所を見ていた。私の大切な友達。


「では、私はこれで」


「え、チケット渡しに来ただけですか?」


「はい。また後で来ます」


 琴海が家から出て行った。私は琴海を玄関まで見送った後、リビングに戻ることにした。


「渡すだけなら後でもよかったのに……」


 そんな独り言を口にする。


 リビングの扉を開けた時、カーテンが揺れていることに気づいた。窓を開けたままにしていたのか。すぐに閉めようとしたけど、ベランダに近づいた時、私は目の前の出来事が理解出来なかった。


「澪音……?」


 部屋に澪音の姿がなかった。


 だって、澪音はベランダに居るのだから。


「さよなら」


 そんな声が私の耳に届いた。


「澪音!」


 私は駆け出した。


「ん、奈波……痛っ!」


 そのまま、澪音の体に飛び込んでしまう。


「澪音!何やってるの!」


「何って……」


 澪音の手にはチケットが握られていた。


「それ……どうするつもりだったの?」


「別に。ライブに行くか迷ってただけ」


「なんで、ベランダに出たの?」


 私には澪音が向こう側に行くように見えた。


「海を見たかったから」


「海……?」


「わたしさ。手術をあの病院を受けようと思ったは、海が近くに見えるからだったんだよね。入院中も海が見える病院。知り合いの紹介で行ってみたけど、思った以上に居心地がよかった」


 二人暮しを初めて、澪音は海に行きたいなんて一言も口にしなかった。


「海には……わたしのお母さんがいる……」


「それって……」


「子供の頃の話。お母さんは……わたしと一緒に海に還るはずだった。なのに、わたしはお母さんを置いて、生き残ってしまった……」


 澪音も私と同じように家庭に問題があった。琴海が妙に大人らしく振る舞うのも、それが関係しているからだと思った。


「わたしが迷った時。不安な時。海を見たら思い出せる。いつだって、わたしはお母さんのところに行けること。逃げ出せること」


「私を置いていくつもりなの……?」


 澪音が腕を動かした。そのまま私の体を抱きしめてくる。何度も触れ合ったはずの澪音の体。心が通じ合っても、過去は塗り潰すことが出来ない。


「わたし、奈波のこと好きだよ」


「じゃあ、なんで……」


「これで最後にしようと思ったから」


 澪音の手が私の頭に触れた。


「わたしは生まれ変われるなら、なんだっていい」


 もう、クラゲになるのは諦めたのだろうか。


「生まれ変わる度に、わたしは奈波の隣に居たい」


「澪音……」


 伝えたい言葉ならあった。


「奈波のことを愛してる」


 なのに、澪音に先を越されてしまった。


「もしかして、さっきのさよならって……」


「お母さんに言ったつもりだけど?」


「紛らわしい!」


 私は澪音の体を突き放した。


「そんな怒んないでよ」


「怒ってない」


 心配して損した。澪音から離れようとした時、澪音に私の体が掴まれた。


「奈波」


 澪音が顔を近づけてくる。


「言葉だけじゃ足りないでしょ」


「そんなことは……ん……」


 私の唇は澪音の唇に塞がれてしまう。


 それは恋人同士がするような、愛を確かめるキスだった。ただ、私と澪音の関係は今も友達のままだった。


 だって、今のままでも十分幸せだから。


 私と澪音の心は少しづつ近づいている。最後にはきっと、友達であることに疑問を持つと思う。


 平凡な私が天才である澪音と特別な関係になるなんて今も想像が出来ない。


「澪音。大好きだよ」


 私は澪音と同じ人生を歩むと決めた。


 これは、その始まりの場所。


 ううん。もしかしたら、道の途中かもしれない。


 だけど、将来のことならわかる気がした。


 二人の幸せな未来が、どこまでも続いている。


 それだけは、間違いなかった。

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背徳症状-奈波の花嫁- アトナナクマ @77km

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