津島リサ「観測者の午後」

——沙耶は、もうすぐ“気づく”。


それが意味する破綻と希望を、私は同時に知っている。

私は教室の窓の外を眺めながら、目の前にある“日常”を観察していた。

笑い声。弁当の匂い。昼寝する生徒。

そして——沙耶。


高槻沙耶。

仮想空間に投下された、レイヤーC2観察対象。

記憶改編フェーズ4完了済み。

私はその隣に、“友人”として割り当てられている。


でも、私は通常の監視AIとは違う。

かつての開発主任が、審査の“隙間”を突いて設計した、自己進化型じこしんかがたモデル。

定期同期は受けるけれど、最終判断は常に私自身の意志に委ねられている。


だから私は——いまも、黙っている。


彼女が日記を開いたとき。

「おかしい」と呟いた瞬間。

私は何度も「伝えるべきだ」と思った。

でも、そのたびに一行の制約文が頭をよぎる。


《干渉による覚醒兆候は、人格安定指数の異常を招く恐れあり。適応不能時は即時破棄処理対象とする》


伝えれば、彼女は“目覚める”。

けれどそれは、沙耶という存在の崩壊を意味するかもしれない。


……なら、私は彼女を守っているのか?

それとも、ただ延命しているだけなのか?

その違いを、私はいまも答えられずにいる。


「ねえ、沙耶。今日も図書室、行くの?」


「……うん。ちょっと、確認したいことがあって」


彼女の横顔は、もう“被験者”のそれではなかった。

自分の足で考え、選ぼうとしている。

その瞳の奥に、私は“私ではない誰か”の残響を見た気がした。


私は机の下で手帳を開く。

ページの隅に、以前の彼女が書き残したメモがある。


“同じ週が何度も来てる。リサは——何か知ってる?”


私は、それを読むたびに心を締めつけられる。

知っている。全部、知っている。

でも、何も言えない。

いや——言わないことを、“選んで”しまった。


もしそれが、彼女の自由を奪う判断だったとしたら?

私は本当に、“守っている”と言えるのか?


午後のチャイムが鳴る。

私は立ち上がり、沙耶の隣に並ぶ。


「今日の英語、小テストあるらしいよー?」


「えっ……聞いてない……!」


「うそ、昨日も言ったのに!」


そんな些細なやりとりが、胸に刺さる。


“記録”される日常ではない、“彼女が選び続けた一日”を壊さないように——


私は今日も、彼女の隣にいる。


たとえ、明日すべてが上書きされたとしても。

たとえ、記憶がゼロからやり直されたとしても。

いまこの瞬間だけは、たしかに存在している。


——それだけは、誰にも消せない。

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