坂道
真花
坂道
「嬉しいけどって、何だよ」
何もかもがオレンジに染まる坂、長い陰影を垂らす人々を追い抜いて俺は駆け登る。息が切れる。涙がぐしゅぐしゅと漏れる。みんなが俺を見ている。俺は首を振って視線を払う。楠の木の下にあの人はまだ立っているだろう。離れなくてはならない。少しでも遠くに行かなくてはならない。
「おばちゃんだしって、何だよ」
そんなことは最初から分かっている。分かっていて呼び出したんだ。どう少なく見積もっても俺の倍は生きているのは顔見れば分かる。だけどそんなこと関係なかった。一緒に仕事をして、ときどき喫煙所で話して、それじゃ足りないって思っちゃったんだ。見映えの悪い二人だっていいと思ったんだ。
走る。坂はまだ続く。涙は止まらない。呼吸は止まりそうだ。
「子供もいるしって、何だよ」
しかも俺よりも年上って。いや、そんなの問題にならない。そんなことでへこたれてなるものか。歳の差があれば付きものなんじゃないのか。気にするものか。汗が体にまとわりついて、カバンがバタバタ言う。息が苦しいが俺は足を動かし続ける。
「夫だっているしって、何だよ」
略奪してやるよ。負けない。俺はまだ若造かも知れないけど、その分未来がたんまりあるんだ。旦那さんにはもう残り少ない未来が。俺の可能性を信じて欲しい。俺の未来を信じて欲しい。俺達をオレンジに照らす歪んだ太陽が少しずつ大地に喰われていく。
「恋人もいるしって、……何だよ!」
若いのがいるって。俺は、そうですか、と言ってあの人の顔を見たら、とても真剣だったから断るための嘘だとは思えなくて、分かりました、と頭を下げて振り返って走り出した。楠の木からはなだらかな坂がずーっと隣の駅まで続いていて、俺はそこを駆けずにはいられなかった。
涙をぼたぼた流しながら息を切らせながら坂の頂上に至る。振り返れば遠くに大きな楠の木が見える。あの人がそこにいるのかは見えないがきっと立っている。オレンジの時間が終わろうとしている。世界の色が影の色になろうとしている。俺は肩で息をしながら両手でメガホンを作る。俺の全部を声にする。
「大好きでした!」
声の行き先を見届けて、俺はへたり込む。最後のオレンジが溶けて夜が始まる。そのうち朝は来る。
(了)
坂道 真花 @kawapsyc
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