第3話 海に還る

世界が崩壊してから、どれくらいの時がすぎたのか――

誰も数えないし、誰も覚えてない。

かつて街だった場所は、風に削られたコンクリートと鉄骨の残骸が散らばる荒野になり、そこを吹き抜ける乾いた風が、時間という概念を辛うじて運んでいた。



悠と澪は、その荒野を、一歩ずつ踏みしめながら歩いていた。

ふたりとも二十代半ば。幼い頃からずっと一緒に生きてきた“家族のような存在”だった。

しかしその旅は、これまでのどんな旅よりも重い意味を持っていた。

悠が奇病――身体が砂になって崩れていく病――にかかっていることがわかったのは、ほんの数日前のこと。

あの日の朝。

澪が焚き火の火を起こそうとしていたとき、悠がぽつりと呟いた。


「……澪、ごめん。ちょっと見てほしいものがある」


「なに? また手切ったとか?」


「それならよかったんだけどさ……」


そう言って悠が袖をめくったとき、澪は言葉を失った。

悠の右手の指先が、淡く崩れ、さらりと砂になって落ちていった。


「……嘘、でしょ……?」


悠は苦笑いを浮かべた。


「痛くないんだ。だから、安心して」


「安心なんて……できるわけ……っ」


声が震え、澪は唇を噛んだ。

奇病は原因がわからず、治療法もなかった。ただ、時間とともに身体が砂のように崩れてしまう。

 何年も前から流行していたが、崩壊した世界では正確な情報など最早存在しない。人々はただ、自分の体の輪郭がぼやけていく恐怖と向き合うしかなかった。


悠は静かに澪の肩に手を置いた。

その手はまだ温かかった。

「澪」


「……なに」


「海、見たいんだ。最後に」


「海……?」


澪は目を丸くした。海は危険区域だった。崩壊後は汚染されたと言われ、誰も近づこうとしなくなった。だが、悠は穏やかに微笑みながら続けた。


「崩壊前は好きだったんだ。小学生のとき、一緒に行ったろ?」


澪は、泣きそうな顔のまま目を瞬かせた。


「……覚えてるよ。波が強くて、悠、溺れそうになったもんね」

「やめろよ、その黒歴史ほじくるの」


悠の照れくさい笑顔が、澪の胸をさらに締めつけた。


「だからさ……もう一回、あの海を見たいんだ。澪と」


澪は拳を握りしめ、深く息を吸い込んだ。


「……わかった。行こう。絶対に」


悠は驚いたように目を見開いた。


「ほんとに?」


「当然でしょ。悠を置いてどこ行くのよ」


「いや……体力ないくせに」


「ある! あるし、なかったら悠を背負う!」


「無理だって。そんなに軽くないぞ」


「いいの。砂になって軽くなってくでしょ?」


「ひでぇなその理屈」

澪はしばらく黙っていた。

悠が時間を失いつつあることは、触れなくてもわかった。腕の輪郭が少しずつ曖昧になり、歩くたびに足跡に薄い砂が落ちる。

それでも、悠は笑っていた。まるで、最後に残った輪郭だけは守り抜こうとするように。

やがて澪は、そっと彼の手を握った。


泣き笑いしながら、二人は旅支度を始めた。

――こうして“最後の旅”は始まった。




 旅は過酷だった。徒歩で進んだのは、一週間にも満たない短い期間だったが、悠の身体の崩壊は日ごとに進んだ。

 山影を越えるたび、悠の息は荒くなる。

 砂嵐に襲われた夕方には、澪が叫びながら彼を引き寄せ、崩れた壁の陰で二人は身を寄せた。


「悠、こっちに!」

 暴風が巻き上げる砂が頬に刺さる。視界は茶色い霧に覆われ、息を吸うたびに肺が痛んだ。


「……こんなに、痛かったっけ、世界って」


「昔はね、もうちょっと優しかったよ。……でも、私たちには関係ないよね。海に行くんだもん」


澪の声は明るいようで、少し震えていた。

 悠は、その震えの理由を悟りながらも、黙って彼女の手を強く握った。

 翌日。

 太陽が沈む直前、二人は瓦礫の街の外れにある崩れたトンネルに差し掛かった。内部は暗く、湿気がこもっている。

 トンネルは海へ向かう最短ルートだったが、天井が所々落ちかけており、危険は分かりきっていた。

「……大丈夫か?」


「悠の方でしょ」


 澪は灯りを掲げながら先に進んだ。

 歩くたび、小さく周囲に砂が落ちる音がした。振り返ると、悠の肩のあたりがほんの少し細くなっているように見えた。

 トンネルの途中、ふと澪が口を開いた。

「怖くないの?」


「怖いよ。でも……それ以上に、澪と海を見たい」


 その言葉を聞いたとき、澪は急に足を止めた。

 灯りの範囲の中で、彼女はゆっくり振り返り、悠の顔をまっすぐ見つめた。

「悠、私……」


「ん?」


「もし、私にも……同じ病気があったら、どうする?」

 少し沈黙が落ちた後、悠は柔らかく笑った。


「そしたら、一緒に行けばいい。俺が先に砂になっても、最後まで澪と一緒にいたい」

 澪の喉が震えた。声を出そうとしても、言葉がうまく出てこなかった。

 やがて小さく頷き、灯りを胸に抱きしめて歩き出した。

 海が近づくにつれ、空気が少しずつ湿り始めた。

 だが、同時に悠の体の崩壊も急速に進んでいった。

 膝を折り、額を押さえる瞬間が増えた。

 澪が支えると、彼の肩が少しだけ崩れ、サラリと砂が澪の掌に落ちた。

「悠っ……!」


「大丈夫、大丈夫だよ……もう、すぐだから」

 その言葉の「すぐ」に、どんな意味が込められているのか、澪は怖くて考えられなかった。

「……ねぇ、澪」


「なに?」


「昔さ、二人で海に行った時……澪が波の音を“世界の呼吸”って言ってたの覚えてる?」


「覚えてるよ。だって、ほんとにそう聞こえたから」


「俺、あれが好きだったんだ。澪の言葉ってさ、世界をちょっとだけ優しく見せてくれたから」

 澪は立ち止まり、彼の手をそっと摩った。

 砂のように柔らかい、かつては確かだったその手を。


「世界の方じゃないよ。……悠が一緒にいたから、優しく見えただけ」

 そして、ある日の夕暮れ。

 丘を越えた先に、ついに海が姿を現した。

 水平線に沈みかけた太陽。

 波間でかすかに光る夕陽の道。

 潮風が、二人の頬を優しく撫でた。


「……ついた、澪……ほんとに、ついたんだな……」

 悠の声は微かに震えていた。

 その震えが、喜びなのか、残り少ない時間のせいなのかはわからなかった。

 浜辺に降りると、悠は膝をついた。

 澪が慌てて支えるが、悠は微笑んで首を振る。


「もう……ここでいいんだ」

 足首まで海水に浸かり、波の音を聞きながら二人は並んで座った。


「澪、ごめん。……そして、ありがとう」


「なに言ってるの」


「ここまで来れて……ほんとに、よかった」

 澪は涙をこらえた。

 彼の輪郭が、もう霞んで見えていた。


「ねぇ、澪」


「……なに?」


「もし……俺が全部、砂になっても……怖がらないでくれよ。これは終わりじゃなくて、還るだけなんだから」

 波の音が静かに、ゆっくり打ち寄せる。


「海に……還るんだ」

 その一言のあと、悠の身体は光を散らすように崩れ始めた。

 澪は必死にその砂を抱きしめた。

 まるでその温度をひとつ残らず覚えておこうとするかのように。


「悠……大好きだよ……ずっと、ずっと……」

 その声に応えるように、風が優しく吹き、彼の砂は澪の腕の中で静かに眠っていくようだった。

 澪は動かなかった。

 海と空の境界を見つめたまま、腕の中の砂を抱き、静かに佇んでいた。

 やがて、澪の指先にも小さなひびが入り、砂が落ちた。


「……やっぱり、そうだよね」

 彼女もまた、奇病を発症していた。

 悠に言えなかったのは、彼を悲しませたくなかったからだ。


「大丈夫だよ、悠……一人にはしないから」

 崩れていく身体のまま、澪は海へとそっと身を預けた。

 波が静かにさらい、風が優しく撫でていく。

 彼女の身体は、やがて悠と同じように、穏やかな砂になって波間へ溶けていった。

 夕焼けの海は、まるで二人を迎えるように美しかった。

 砂は波に乗り、ゆっくり、ゆっくり沖へと運ばれていく。

 まるで、海に還る遺骨のように。

 二人がもう一度、どこかで寄り添えるように。

 世界が崩れたあとに残った、ほんのわずかな優しさが、この海にはまだ確かに息をしていた。

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収歛の唄 ー世界のあとでー まっぴ @mappppppy

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