第3話

 午前中の講義というのは、どうしてこうも魂を削る作業なのだろうか。

 教授の口から放たれる専門用語の羅列は、右の耳から入って左の耳へと綺麗に通り抜けていく。


 俺の脳はそれを情報として処理することを早々に放棄し、昨夜の女神の囁きを反芻する作業にリソースを全振りしていた。

 単位のため、ただそれだけのために、俺は週に数回この苦行に耐えているのだ。


 そして、解放のチャイムが鳴り響く。

 

 ゾンビの群れのように教室から溢れ出す学生たちに混じり、俺は一路、学食へと向かった。

 目指すは、安くて量が多くて、味は可もなく不可もない「B定食」。

 それが、今の俺の胃袋を満たす唯一の選択肢だ。


「よお、拓海!お前、昨日の合コン来ればよかったのに!めちゃくちゃ盛り上がったぜ!」


 巨大なトレーの山から一つを抜き取ったところで、背後から陽気な声が飛んできた。

 振り返れば、同じ学部の友人がニヤニヤしながら肩を組んでくる。

 こいつの脳内は、常にサークルと合コンとバイトのことで埋め尽くされている、典型的な陽キャ大学生だ。


「興味ねーって言っただろ」

「またまたー。結構可愛い子来てたんだぜ? 今度こそお前も来いよ、人数合わせじゃなくてさ!」

「間に合ってるんで。俺には、三次元の女は必要ない」

「出たよ、拓海の二次元至上主義!お前、マジで一生そのままでいる気か?」

「そのつもりだが、何か?」


 俺が真顔で返すと、「こりゃダメだ」と大げさに両手を広げ、別の仲間を見つけて去っていった。

 ふん、分かってない。あいつらは何も分かっちゃいないのだ。


 現実の女子が、どれだけ面倒で、理不尽で、コスパの悪い生き物であるかを。

 その点、二次元のヒロインたちは最高だ。

 裏切らないし、歳も取らない。

 そして何より、俺だけのために、最高の声で囁いてくれるのだから。


 カオスと活気が渦巻く学食で、壁際の空席をなんとか確保し、B定食――本日はアジフライ――をもそもそと口に運び始める。

 その時だった。


「拓海、また一人で食べてるの?」


 呆れたような、それでいて親しみに満ちた声と共に、俺の向かいの席に当たり前のようにトレーが置かれた。


「早紀か。いるだろ、お前という幼馴染が」

「はいはい、そーですねー。ていうか、またB定食?」


 真田早紀(さなださき)。

 幼稚園からの腐れ縁で、大学も学部まで一緒という、もはや呪いか何かと疑うレベルの幼馴染だ。


 風に揺れるショートカットに、快活な笑顔。

 バスケで鍛えたしなやかな体躯を、少しボーイッシュなパーカーに包んでいる。

 美羽が「静」の美少女なら、早紀は「動」の美人といったところか。


「うるせえな。安くて腹が膨れりゃ、それでいいんだよ」

「そういうとこがダメなんだって。ねえ、午後の講義、ノート取ってある?」

「ああ、あるけど。どうせ俺のノート、解読できねえだろ」

「うっ……。まあ、ないよりはマシかなって……」


 気兼ねない会話。こいつと一緒にいると、良くも悪くも空気が緩む。

 こいつの前では、俺はただの「幼馴染の葛城拓海」でいられる。

 それは楽だが、同時に何のときめきも生まない。


 他愛もない話が一段落したところで、早紀がふと居住まいを正した。


「ねえ、拓海」

「ん?」

「あのさ、今度の週末なんだけど……もし予定がなかったら、新しくできた映画館、一緒に行ってみない? 拓海が好きそうなSFアクションのやつ、やってるんだけど……」


 少しだけ上目遣いで、緊張した面持ちで、彼女がそう切り出した、まさにその瞬間だった。

 ブブッ、と俺のポケットの中でスマホが震えた。


 ――キタッ!


 ディスプレイに表示された通知の送り主は、俺が血眼で更新をチェックしている同人情報まとめサイト。

 そのプレビューには、待ち焦がれた文字が躍っていた。


 【速報】人気声優・桜井みお、次回作情報解禁か!?


 俺の意識は、一瞬で目の前の現実から乖離した。

 早紀の声が、まるで水中から聞こえるかのように遠のいていく。

 脳細胞が歓喜の雄叫びを上げ、指は意思を持つかのようにスマホのロックを解除していた。


「あー……わりぃ、早紀。今週末はちょっと、外せない用事があって」


 俺の視線は、スマホの画面に釘付けだ。

 

 なんだって!? 新作は学園モノ!? ヒロインは生徒会長で、主人公を甘やかす年上幼馴染だと!? 最高かよ! 桜井みおの年上キャラは、包容力のある甘い声色が特徴なんだ! あれは……あれはヤバい!


「そ、そっか……。うん、まあ、忙しいなら仕方ない、よね」


 俺の目には、記事に書かれた「CV:桜井みお」の文字しか映っていなかった。

 いい奴なんだ、早紀は。それは分かってる。

 明るくて、誰にでも優しくて、俺みたいな朴念仁にもこうして甲斐甲斐しく絡んでくれる。


 だが、恋愛対象かと言われれば、答えは即答で「ノー」だ。

 こいつは、美羽と同じで「妹」のカテゴリーに入る。

 家族であり、仲間ではあるが、それ以上でも以下でもない。


「あ、じゃあ、私、もう行くね!午後の講義も頑張ろうね!」


 健気にも、早紀はパッと明るい笑顔を作って立ち上がった。

 

「おう」


 短い返事だけを返し、俺は再び情報の海へとダイブする。

 発売日は来月末。予約特典は……録り下ろしASMRボイスCD!? マジかよ! これは戦争だ! 何としてでも手に入れなければ!


 一人になった学食の席で、俺は一心不乱にスマホをタップし続ける。

 周りの学生たちの楽しげな笑い声も、賑やかなBGMも、今の俺には届かない。

 

 俺の世界は、この小さな四角い画面の中にだけ、確かに存在していた。

 

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