月アカリ

夢を見た。


水平線に、大きな大きな蒼い満月が浮かんでいる。

私は夜の河原に立ち、一人でじっとその空を見上げている。

アノマロカリスが、三葉虫が、ハルキゲニアが、ダンクルオステウスが、古代の生き物達が、ゆっくりと空の海を漂いながら満月へ向かってゆく。

川辺には錦鯉がいて、赤と金と黒と白をモザイク画のように散りばめながら泳いでいる。

空と川が、一つのいのちのように繋がっていた。

ひどく幻想的で、しかし、どういうことだろうか。

ひどく懐かしい。

ふと横を見る。

隣に山下がいた。私の記憶の中の山下があの時の姿のまま、じっと私の隣に立っていた。彼は人形のように固まったまま、空を見上げている。

私は、ハッとした。伝えなければ。今だよ。

私の中の何かが溢れ出してきて、必死にそれを伝えようとするのだけれど、口は頑なに動かない。それでも、どれだけの時間がかかっても、月が地球から離れてゆく速度でもいいから伝えたい。今、確かにここにある想いを、「私」を、彼に伝えたい。

山下は川に足を踏み出し、水面を音も立てずに歩いていく。そうして、彼も蒼に向かって進んでゆく。

ああ、行ってしまう。蒼に溶けてしまう。

お願い、もう一度だけ振り返って。そして、言わせて欲しい。たった一言でいい。

神様、お願い。



目が覚めると、寝室で手を伸ばしていた。指の先にある置き時計が等間隔に音を刻む。

窓を開ける。夜明け前の空気の香りを吸う。

さっきのは夢で、ここは現実だ。

頬に残っていた乾ききった川の跡をなぞった。



「ごめんね、急に呼び出したりなんかして。」


ビルの立ち並ぶ喧騒な街中にある小さな喫茶店で、私はアカリにそう語りかける。


「全然!私こそチヒロに会いたかった。結構久しぶりだよね?結婚式で会ったきりかな。」


そう言うアカリの左手の薬指には、ちゃんと指輪がはめられている。鈍くくすんだ金で髪をかきあげるその仕草に、アカリがすっかりいい大人になってしまったことを痛感されられる。

いや、それは私もか。


「で?今日はどうしたの。」

「だいぶ前の話なんだけどさ、私と二人で地元の喫茶店に行った日のことって覚えてる?」

「んー・・・ごめん、全然覚えてない。それがどうかしたの?」

「うん、私ね、その時アカリに「山下」って男の子のことを聞いたんだよね。ほら、アカリって二中だったでしょ?その子も二中だったからさ。」

「山下?そんなこと聞かれたっけ。まぁいいや。私、なんて答えたの?」

「メガネで目立たない人だよねって、それから、気になるなら一度デートしてみたらって。」

「ええ、嘘だあ。私、千尋にそんなこと言ったことないよ。誓ってもいいよ。そもそも千尋、自分の恋愛の話なんて一度もしたことないじゃん。」

「え?」

「知ってると思うけど私、記憶力はいい方だからね。そんな話してないよ。私じゃない誰かにしたんじゃない?」

「ゲイシャの時だよ?」

「芸者さん?」

「違う。コーヒーの話。私がその店でゲイシャコーヒーを飲んだの。アカリは、アカリはその時もアイスカフェオレを頼んでた。それから私に「コーヒーなんて興味あったっけ?」って、そう聞いたよ。」

「いや、本当に記憶にない。そんなコーヒー、今初めて聞いた。」


アカリがアイスカフェオレを飲む。アカリは昔からずっとアイスカフェオレだ。


「でも、私が今その話を聞いてたら、やっぱりその質問をチヒロにすると思う。」


何が起きているの?

そんなことってあり得るの?

私は今目の前で起きている事実を受け止めきれずにいた。


「不思議だね。チヒロは“神隠し”にでも合っちゃったのかな?」


コーヒーの香りが、雑踏の足音が、私を素通りしていく。


「アルバムってある?二中の卒アル。」

「私の記憶を疑ってるの?絶対そんな人居ないし、そんな話してないよ。」


私はまだ信じられなくて、でもなぜか無性に悲しくて、涙を流しそうになるのをグッと堪える。


「・・・まっ、千尋は言いだしたらテコでも動かないことは私が一番知ってるからね。分かったよ。アルバム、実家にあると思う。送ってもらうことにするよ。」

「ありがとう。」



居ない。どこにも居ない。嘘だ。

もう何十分も、何度も何度も、同じページを行ったり来たりしている。それでも彼はどこにも見つからない。


「ほらね。山下なんて人、居ないんだよ。」


アカリの呟きなんて目もくれるずページを次々に捲る。


「二年生の時に転校しちゃったとかそういうことはないの?」

「最初に二年生の集合写真を見せたでしょ?それに、さっきも言ったけどうちの学年は誰も転校なんてしてないよ。もちろん転入生もね。」


ちょうどその集合写真を見ていて、その手は止まっていた。確かに。どこにもいない。


「どう?納得できた?」

「せざるを得ないね。」


そっとアルバムを閉じて、アカリの方へ差し出した。


「ごめん。わざわざありがとう。」

「謝らないでよ。私も久々に懐かしい思い出に浸れたし、むしろこちらこそありがとね。」


黙り込んで下を向く私を気遣って、アカリは声をかけ続けてくれる。


「またいつでも連絡してよ。アルバムはこっちに置いておくし、見たくなったらまた来てよ。今度はうちの子供と旦那も改めて紹介したいし。ね?」

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