井沢
辰井圭斗
――
俺は五歳の頃、井沢というよく分からない男と暮らしていたことがある。
事情を言ってしまえば、五歳の冬、母が弟の出産で入院し、会社員だった父はその間も働くため、手のかかる俺を井沢に預けたということなのだが、問題はその井沢が父とどういう関係なのかさっぱり分からないということである。それまで親戚の集いに井沢がいたということもなければ、井沢が家に遊びに来たということもなかった。
母が入院した翌日、父は俺の手を引いてバスに乗った。車窓の後ろに流れていく景色は次第に馴染みなく、見知らぬものに変わっていく。バス停から降りてしばらく歩くと、古い大きな一軒家があって、その軒先で白く息を吐きながら俺達を待っていたのが井沢だった。
井沢は全てがめんどくさそうな顔をした細身の男で、長い黒髪をゆるく結わえて肩に垂らしていた。父は俺の手を軽く引いて井沢の前に連れ出す。
「これ、俺の子ども」
父と井沢の間では既に話がついていたのだろう。井沢は父の手から俺を引き取った。
「ああ、そう。名前は?」
「涼介」
俺は、俺の名前を聞いた瞬間に井沢の眉が寄るのを見逃さなかった。全てがめんどくさそうな動きの少ない井沢の顔に微かに動揺が見えた。もっともそれが動揺だったのだと気付いたのは、後日この日のことを思い出してからだったが。父はいつもの父の笑顔で井沢に引き渡された俺の頭をなでた。
「じゃあな、涼介。落ち着いたら迎えに来るから、井沢と仲良くするんだぞ」
そうして笑いを収めて、井沢を見ると、そのまま元来た道へとあっさり去って行った。井沢は俺の手を掴んだまま、その背中をじっと見ていた。父が角を曲がって見えなくなってからしばらくして、井沢は独り言のように「入るか」と言った。外は雪がちらついていた。
井沢の家は、土壁と木の匂いがした。家の中は意外なほどに片付いていて、井沢は部屋の隅にあった電気ストーブをつけると、俺の上着を脱がせて、ハンガーにかけた。
「あの、おじさん」
「井沢でいい」
「井沢、さん」
「井沢でいい」
俺は全く初対面の大人を呼び捨てにするのは変だという気がしたが、井沢がそうしろと言うなら、それに従うしかなかった。
「井沢、俺ここで何をしていたらいいの?」
「別に何も。俺の目に入る範囲で、適当に遊んでいたらいい。ゲームはないが、二階に本があるし、花札の類も探せば見つかるだろう」
俺は花札が何か分からなかった。とにかく分かったのは、やはり何をしていたらいいのか分からないということだけだった。井沢は顎に手を当てている。長い黒髪のかかる目元は物思いに沈んで、何か別のことを考えているらしい。掛け時計の分針がカチと動いた。
「井沢はお父さんの友達なの?」
「全然友達じゃない」
俺はびっくりしてしまった。確かに父と井沢は特段愛想もなく話し、仲睦まじい雰囲気も見せなかった。だが、友達でないと言うなら、なぜ父は五歳の息子を井沢に預けたのだろうか。
「じゃあなんで俺を――」
そこで井沢が立ち上がった。めんどくさそうにマフラーを巻く。
「裏の畑に大根を引きに行く。お前も来るか」
俺が頷くと、井沢はさっきハンガーに掛けたばかりの上着を、俺に渡した。
玄関を出て、家の壁に沿ってぐるりと巡れば、果たして大きな畑が広がっており、俺と井沢は畝と畝の間を歩いて行った。俺は畑というものの中を歩いたのは初めてだった。足元に大根の葉っぱが広がっている。井沢は畑の中ほどに行くと足を止めた。
「これがいい。引っ張ってみるか」
井沢の足元には立派な大根が土から覗いていて、緑の葉を広げていた。俺はしゃがんで、葉の根元を掴んで上に引っ張ってみたが、全然動かない。
「それじゃ抜けない。綱引きみたいに後ろに引っ張るんだ」
井沢は俺の肩に手を当てつつ、片手で大根を一緒に引っ張った。しばらくそうして引いていると、やがて手応えがあって、土の中から大根が抜けた。俺は大根を握ったまま尻もちをつく。井沢は俺の手から大根を奪うと、畑の隅の水道まで持って行って洗った。
家に入る前に土のついた尻を軽くはたかれ、中に入るとまた上着を脱がされた。ストーブはつけたままだったから、十分に暖かかった。井沢はめんどくさそうに大根を台所に持って行くと、大きく輪切りにしてから桂むきにし始めた。
「お手伝いある?」
「お前じゃまな板に背が届かんだろう。暇だったらそこの椅子に座ってろ」
井沢は皮をむいた大根をざくざくと銀杏切りにし、深底のフライパンに酒やめんつゆや醤油を入れて火にかける。それから、台所の隅にある冷蔵庫に入っていた豚バラのブロック肉を取り出し、大根と一緒に出汁の中に沈めた。豚と大根を煮込んでいる間に、大根の葉を細かく刻み、湯にさらした油揚げも同じくらい細かく刻んでいく。「お前、唐辛子少し入っていても大丈夫か」「大丈夫」井沢はもう一つ浅底のフライパンを取り出すと、ゴマ油を引いて火にかけ、輪切りにした唐辛子を入れて、匂いが立ったところで、大根菜と油揚げを炒め始めた。
井沢はごく自然に手を動かし続けた。俺が変なことをして怪我でもしないように気を配っているのはなんとなく分かったが、強いて俺の方を見ようとはしなかった。俺はそんな井沢の手の動きを、側にあった椅子の座面に立って眺めていた。
井沢の家にはほとんど娯楽というものがなかったが、井沢が料理を作っているのを眺めるのは好きになった。三食おおむね決まった時間に二三品作る井沢の手は見ていて謎の快感があった。骨ばった井沢の手が働いているのも見慣れた頃には、井沢との暮らしにも慣れていた。井沢は俺を普通の大人が子どもにそうするように可愛がりはしなかった。ただ、きっちり三食作って俺に食べさせ、風呂に入らせ、洗濯をし、寝かしつけた。そして、ただの一度も、「涼介」と俺の名前を呼ぶことはなかった。
俺も井沢を井沢としか呼ばなかった。最初から最後まで他に呼びようがなかったのだ。俺は、ある夜、井沢の隣で寝ながら聞いてみたことがある。
「井沢は下の名前なんて言うの?」
井沢はすべてがめんどくさそうな顔を僅かに曇らせたのち、「言うか、バカ」と言った。
井沢の料理はほとんど和食だったが、一度だけ昼にサンドイッチを出してくれたことがある。前の晩に「好きな食べ物はあるか」と今更のように聞かれた俺が、「サンドイッチ」と言うと、井沢はめんどくさそうに「……パンはないな」と呟いた。そうして、次の日の朝、俺に支度をさせると、井沢は俺の手を引いて近所のパン屋に行き、焼き立ての食パンを一斤買った。井沢はその食パン一斤を俺に抱えさせて歩いた。袋から焼き立ての小麦の匂いがして非常に幸せな気分でいると、井沢はどこか痛むような顔をして俺の頭に手を置いた。井沢に頭を撫でられたのは、その一回きりだった気がする。
井沢には恋人も友達もいなさそうだった。井沢はほとんど家か畑にいて、時々街に行って買い物をし、また家に帰って来た。井沢は父と同じくらいには若かったが、こうして静かに老いていくのだろうということが、既に見えているような暮らしぶりだった。
十日ほど経ったか、父が俺を迎えに来て、井沢とはあまりにも呆気なく別れることになった。俺が井沢の家に来た日みたいに、軒先に立った井沢は、あの日と逆に、俺を父に引き渡した。井沢から俺を受け取った父は、俺の方を見ながら井沢に聞く。
「どうだった、俺の息子は」
井沢は黙って、風に攫われそうになる髪を手でおさえると、
「あまり人の古傷をえぐるものじゃない」
と言った。
俺は父と一緒に家に帰った。もう少し大きければ、道順も覚えられたのだろうが、残念ながら井沢の家への行き方は覚えていない。それから、俺は今に至るまで、一度も井沢には会っていない。
井沢 辰井圭斗 @TatsuiKeito
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