夜に閉ざされて
河村 恵
第1話
その客は、毎週金曜の夜になると決まって現れた。
何も借りず、何も読むこともなく、ただ窓の外をじっと見つめている。
灰色のコートを着て、話しかけても返事をしない。雨の日も雪の日も変わらずやってくるその姿は、顔立ちは平凡なのに、見つめようとするとどうしても目の奥に靄がかかるようで、記憶に残らない。
私がこの町の図書館で働き始めてから、もうすぐ半年になる。都会での暮らしに疲れ、縁もゆかりもない小さな町に引っ越してきた。古い図書館は思った以上に静かで、閉館時間が迫ると、私の他には誰もいなくなる。
その唯一の例外が、毎週金曜にやってくる彼だった。
最初のうちは気味が悪いと思った。でも、誰にも迷惑をかけるわけではないし、閉館のベルが鳴ると黙って立ち去っていく。私も次第に気にしなくなった。町の人にそれとなく聞いてみても、「ああ…」と誰も詳しく語りたがらない。せいぜい「昔から来てる」とだけ教えてくれるていどだ。
ある雨の夜のことだった。
窓を打つ雨音がいつもより強く、館内に妙な湿気が漂っていた。いつものように彼は奥の席に腰掛け、外を見ている。閉館の時間が近づき、私は思い切って声をかけた。
「……あの、毎週いらっしゃってますよね。どのような本をお探しですか?」
しばらく沈黙があった。声をかけたことに後悔した。彼はゆっくりと顔をこちらに向けた。その顔は不思議なくらい印象に残らない顔で、年齢さえもわからない。
「君も、もうすぐ出られなくなるよ」
小さく、確かにそう言った。かすれた声だったが、私の耳にははっきり届いた。
私は言葉を失い、そのまま固まってしまった。彼はそれ以上何も言わず、立ち上がって玄関の方へ歩いていく。
私が追いかけたときには、もう扉の外へ消えていた。
今思えばあの時からだった、図書館の空気が変わったのは。
次の週、閉館の時間になっても、彼は現れなかった。私はどこかほっとしていた。帰ろうとドアノブに手をかけたが、開かない。鍵を閉めた覚えはない。
木製のドアはびくともしない。まるで壁に描かれた絵のように、ひんやりとそこにあるだけだった。
窓から外を覗くと、町の景色が見える。だが、いつもより寂しい。通りの街灯がぼんやりと灯っているだけで、人の気配はまるでない。
不安になり、携帯電話を取り出した。
だが画面は真っ黒のまま、電源が入らない。時計を見ようと腕を上げると、そこにあったはずの腕時計が消えている。
胸がざわつく。深呼吸をして落ち着こうとしたが、冷たい空気に肺が締めつけられるようだった。
夜が終わらない。
それがはっきりしたのは、それから数時間後のことだ。
私はカウンターに座り、震える指で壁の時計を見つめていた。短針も長針も止まったまま動かない。窓の外はずっと夜のまま、月も星もない闇だけが広がっている。
私は何度も扉を叩き、叫んだ。だが声は誰にも届かない。
図書館の中には私以外の気配はないはずなのに、本棚の奥で紙が擦れるような音が時折聞こえた。
やがて私は思い出した。あの客が言った「君も、もうすぐ出られなくなるよ」という言葉を。
時間の感覚は失われていった。
空腹も、眠気も感じない。
ただ、外へ出たいという思いだけが胸の奥で渦巻いていた。
ある時、ふと気づくと入口の方に人影があった。金曜の夜に現れるはずの、あの灰色のコートの客だった。
「……どうして、私をここに?」
声は震えていた。彼はゆっくりと近づき、淡々とした声で言った。
「ずっと前から決まっていたことさ。ここは外に出られなくなった者たちの居場所だからね」
「……あなたも?」
彼はわずかに微笑んだように見えた。「ああ、昔は私も外に出ようとしていたよ」
その言葉を聞いた瞬間、私は理解した。この図書館はただの建物ではない。誰かが望むでもなく、「出られなくなる人々」を飲み込み、静かに抱え込む場所なのだと。
それからどれほど経っただろう。
図書館は変わらずそこにあり、夜は終わらない。私は今もカウンターの内側に座っている。開館の時間も閉館の時間もない、終わりのない夜の中で。
そして今日も、また新しい誰かが金曜の夜にこの図書館へ入ってくる。その人が扉を出ようとしたとき、私はきっとこう言うのだろう。
「君も、もうすぐ出られなくなるよ」
夜に閉ざされて 河村 恵 @megumi-kawamura
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