第二話:仁の時間


 毎朝、女房が騒いで俺を起こす。

 昨日は「家に女がいる」だったか。

 毎日繰り返される女房の喚き声。

 ああ、今日もこいつは元気だな。

 朝の日課は……「よし」


 朝のうちは女房の気分が不安定だから、聞いているようで聞いていないふりをする。

 今日は何が見えているのやら……。


 しばらくすると「ピタゴラスイッチ」を見る。

 なぜかわからないが。

 その様子を見ながらトーストとカフェオレを出してやると機嫌がいい。


 その間に洗濯と風呂掃除を済ませておく。

 大体俺が洗濯ものを干す頃に女房は出かけていく。

 俺はいつも女房が何かやらかして困らないように、財布に金を少し入れておく。

 玄関の買い物バッグの中に入れておくと、女房が持っていくという算段だ。


 女房がいない間に掃除機をかけ、台所を片付けておく。

 それから俺も買い物に出かける。


 商店街を出たところにタクシー会社がある。

 いつも電話で、


「今日も出かけたようだから頼みます。」というと、


「毎度ありがとうございます。声をかけておきますよ。」と、言ってくれる。

 まずは「よし」


 駅前の丸石マートには、いつもお世話になっている。

 毎日女房が立ち寄り、パン、牛乳、卵を買うので、1日おきに中身を調整してもらっている。

「いつもすまないね。」

 と言いながら、惣菜やインスタント食品なんかを買い物をしながら女房の様子を聞く。


「奥様はいつもとお変わりなく、今日は牛乳とパンを入れておきました。

 あと、プリンをお勧めすると、喜んでおられましたよ。」


「ありがとう、おかげで助かるよ。」と言いながらレジを済ます。


 女房はお金の計算をしない。

 だからいつも千円札を出す。

 足りないとレジの店員に「買わない」と言っておいてくる。

 そんなやり取りが繰り返され、今ではお財布ごと渡して会計をしている。


 冷蔵庫には、物を置いておけないんだよ。

 そう言えば、冷蔵庫の中身を全部食べちゃうこともあったな。

 生ものなんか、特にだめだ。

 ハムに歯形がついていた時には、さすがに俺も驚いた。


 今度はそば屋に寄って会計を済ませる。

 そば信のご主人もうちの女房の事情を知って、協力してくれる。


「おはようございます、昨日も女房が立ち寄ったみたいだね。

 お昼はあんまり食べなかったから。」


「はい、『いつもの』をおいしそうに召し上がって、元気でしたよ。」


『女房が立ち寄ったら何か食わせておいてくれ。

 電話で教えてくれれば、翌日に金を払いに来る。』という約束だ。

 ここ熱海の高級そば割烹なので、それなりの値段である。

 女房が食べきれるだけの量を見積もって賄い程度のものを出してくれている。


 ここからは商店街巡りである。

 女房が立ち寄りそうな喫茶店、洋服店、果てはアンティークショップまで、


「いつもうちのが世話になっています。」

 といい、支払いがあれば払う。


 饅頭屋の店主が声をかけてきた。


「よお、旦那。どうだい、疲れてないかい?」


「ああ、何とかやっているよ。

 昨日もごちそうになったのかな?」


「なに、気にしなさんな。

 日課みたいなものだからな。」


 そう言っていつも笑い飛ばしてくれる。

 こうして気にかけてくれる人がいると、助かる。


 以前女房が店先でまんじゅうを食べて、黙って行ってしまったことがあったらしい。

 その時は丁重にお詫びをして、代金を払うと、ひと箱待たせてくれて、


「ああ、なんか変な客だなと思っていたんだ。

 そういうことでしたか。

 旦那さんも大変だね、なんかあったら言ってきなよ。」

 なんて声をかけてくれる。

 だから女房が店先を通るたびに、まんじゅうを2個紙袋に入れてくれる。

 もちろん俺は食べたことがないが。

 それ以来、何かの付け届けにはここの饅頭を使っている。


 以前女房になぜ店先のものを食べたか聞いたことがある。

 その時に言ったことは、


「だっておいしそうだったし、そこにまんじゅうがあったからよ。」だと。


 まったく、私たち夫婦はこの商店街では知らぬものがないほど有名である。


 買い物を済ませると帰宅し、女房の帰りを待つ。

 管理人に会釈をし、パスを使ってオートロックを開ける。

 最近の女房はオートロックの使い方がわからなくなってしまったようだ。

 そのため管理人にはひとこと言ってある。


「今日も奥さんは出かけたようだけど、大丈夫かい?」


「ああ、いつもの散歩らしいがね。」


「まぁ、それなら良いのですがね。

 この前夜中にドアの前に立っていらしたから、声をかけたんですよ。」


「ええ?」


「奥様は、旦那様が、

『女のところから、まだ帰ってきていない』と、

 ここで立っていたんですよ。


「そんなことがあったんですか。」


「まぁ、こっちも仕事ですので、かまわないのですがね。

 人目もありますし、家から出ないように気を付けてください。」


「すまないね。」


「幸い夜間は閉まっています。

 どこかに行くようなことはないのですがね。」


 と、迷惑そうに話した。


 大丈夫かい?とは、私もいつも懸念している

「いつか帰れなくなる日」のことである。

 まぁ、この街に女房を知らない人はいない。

 なので、何かやらかせばすぐにわかる。


 俺はドアを勢いよく閉めてやった。


 女房が持っている携帯電話にはGPSがついているため、俺の携帯で現在位置がわかるようになっている。

 商店街を出る頃だな、タクシーには声をかけてあるから

「よし」っと。

 

 一緒に歩くことができればいいのだが、一度「女がいる」とへそを曲げると大変なのだ。


 およそ11時半ごろには帰ってくる。

 それに合わせて昼食を作るが、パンと牛乳、卵を効率よく消費するため、フレンチトーストを作る。

 作り方は携帯で動画を見ながら習った。

 まったく便利になったものだ。


「おかえり、買い物に行ってくれたんだね。

 これからお昼だけど、もう何か食べて来たか?」と聞くと、


「いいえ、特に何も……。」といった。


「お昼出来ているぞ、お前の好きな、フレンチトーストにしたぞ。」


 惣菜のカップサラダの半分を皿に盛り、ドレッシングをかける。

 わかめスープ、フライドポテトとチキンナゲットを盛り付ける。

 これも電子レンジでチンするだけだ。


 いつも女房から目が離せないので、こういう食材はとても助かる。

 女房はきっと今日もそばを食べてきたに違いない。

 しかし、俺の作った飯はいつも残さず食べてくれる。

 

 昼食の片づけをしていると、女房は一度昼寝をする。

 俺はその間に洗濯ものを取り込んだり、畳んで整理している。

 それが終わって一休み。


 コーヒーを飲みながら、テニスの試合をテレビで見たり、飾ってある釣り竿などを時々手入れして、釣り雑誌なんかを見ている。


 ……昔はさ、海に行ってたんだよ。

 釣り竿かついで、朝から晩まで。

 一匹も釣れなくても、別によかったんだ。

 あの時間が好きだった。


 ふと女房に目をやると、幸せそうに眠っている。

 少し休もうと、背もたれによりかかった。

「これがいつまで続くのか」って、たまに考える。

 終わるときがくるのか、俺が先に倒れるのか……

 そう思っても、答えなんか出るわけない。


 女房のいびきが聞こえた。

 昼寝してる時が……いちばん穏やかだな。

 けど、その静けさが、怖くなるときもある。

 この1時間が、俺の休憩……でもな、気は抜けないんだよ。

 いつ呼ばれるか、わかんねえからな。

 いまのうちだ……って、思うんだよ、毎回。


 女房が変になっちまって、また夜も起こされるからな……少し仮眠でもするか。

 でも、こっちが先に寝ちゃったらダメなんだよな。

 起きたときに隣にいなかったら、不安にさせちまう。

 このまま……おとなしく寝ててくれないかなぁ。


 いっそこのまま二人で……終わらせてしまえば楽に……なんてな。

 少しはこっちの気にもなってくれよ……ま、いっか。


 そのうちに、女房が起きてくる頃になる。

 ああダメだ。やっぱり気になるな。

 そう言って静かに台所に向かう。


 午後4時過ぎに女房が起きて来た。

 この前は起きてすぐに、


「おはよう。」なんて言うから思わず


「なに言ってんだ、バカ。」と言ったら本気で怒っていた。


 どうやら寝て起きれば朝だと勘違いすることがあるらしい。

 なので、何か食べればいいだろうと、おやつを出すことにした。

 朝でも夕方でも、起きてくれば、食べたいのだろう。

 この際どうでもよくなった。


 ちょうど丸石マートのプリンがある。

「今日は丸石のプリンがあるぞ。」というと、嬉しそうに食べている。


 それからなんとなくテレビを眺めている間に、台所の片付け、買い物の整理をして、夕食の献立を考える。

 といってもご飯ぐらいは炊くが、残りは盛り付けるだけのサラダ、総菜類、インスタントスープである。


 俺たちも75歳を過ぎれば、そのような食事で十分である。

 昨日の余りを出しても文句が出ないのは助かる。


「ピタゴラスイッチ、そうこれよ、これ。」


「……またこれか。ほんと飽きないな、お前は。」


 それが終わると夕食である。

 自分から席に着くので、俺が女房を催促することがないので助かっている。


「はい、できたぞ。いただきますか。」


「わぁ、今日は唐揚げなのね。ふふっ、大好きなの。」


 女房は黙々と食べる。途中から、俺の分の皿にも手を伸ばし、自然に食べ始めた。

「あ、それ……俺の……」


 女房は、聞こえていない様子で食べ続ける。

 何の悪意もなく、ただそこにあるからという雰囲気だった。


「あぁ、やっぱりここの唐揚げはおいしいわね。

 あの店の?それともあなたが作ったの?」


「さぁな……どっちでもいいさ。」


 たまに、俺の分も食べちまうんだ。

 でも、それで満足して眠ってくれるなら……ま、いいか。


 夕食が終わると風呂の湯を張り、着替えなどを用意しておく。

 食後しばらくしてから声をかける。

 いつも入浴は嫌がるので、時々は叱らなければならない。

 入れば気持ちが良いと言ってなかなか出てこないくせに。


 風呂に入っている間に夕食の片づけをする。

 だいたい20分で声をかける。

 浴室で倒れていないか心配だからである。

 しかし、女房はそんなことは知らず、のんきに長湯をしたいと駄々をこねる。


「ほら、早く出ておいで。」と声をかける。


 女房はたまに服の順序がわからなくなる。

 下着から順番に手渡すと、一つずつならわかるらしい。

 ちらちらと恥ずかしそうにこちらを見ながら服を着ている。


「今日は楽しかったかい。」と話をしながらドライヤーをかける。

 昔の思い出話ばかりしている。

 今日のまんじゅう、俺はもらってないぞ。


 寝る前に1錠のみ薬が処方されている。

 先生によると、


「まずは睡眠時間の安定を図ること、と同時にご主人も寝ないといずれ倒れるからね。」と言っていた。


 おなかの健康食品とともに睡眠導入剤を飲ませる。

 今日はこれで眠ってほしい。

 もう何を言っても驚かないことにしている。

 でも俺が浮気男といわれるのだけは、腹が立つ。


「ねぇ、トイレの水がね、流れてるの、聞こえるでしょ?」


「おい、もう寝ろよ。大丈夫だから。」


「そう?それじゃお休みね。」


 何回目の「お休み」だろう。


 どうやら眠ったようだ。

 これでようやく俺も風呂に入る。


 時刻は0時を過ぎていた。

 俺も目を閉じた。でも耳は、いつも起きてる。


 翌朝は6時ごろに起きて、朝食の準備をする。 

 女房は朝7時ごろに起きる。


 それまで眠っていてくれるのは、助かっている。

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