海が見える教室

百夜 綴(ももや つづり)

海が見える教室




僕が通ってる中学校からは、海が見える。

朝も昼も夕方も、海は静かに煌めいていた。


ある日、教室で怪談話を耳にした。

どうやら夜になると、僕らの2年3組の教室の窓側の席に、女性が座っているのだとか。

その時僕は、初めて人を好きになった。

僕にとってはその情報だけで、それが生きていようが死んでいようが、好きになるには十分すぎるほどだった。


僕は先生に好かれていた。

理由なんて単純だった。扱いやすい子供だったんだろう。

先生に言われたことには全て頷いてきた。

まるでその行為の意味を知らない子供のように、僕は先生に従った。


その日は全てが輝いていた。

夏の暑さで陽炎が現れ、ミミズはアスファルトの上で死んでいた。

夏休みの講習に出ていたのは、僕を含めて3人だった。

残りの2人は赤点を取ってしまったらしく、部活動があると言って講習後、すぐに教室を出ていった。

残ったのは先生と僕。


先生は僕に言う。

「顔が赤いね。保健室に行こっか」

今日の僕は初めて、笑顔で答えた。

「お願いします」



君が現れる夜は、いったいいつなのだろう。

君に会うためなら、なんだってしてしまいそうだ。


保健室のベッドで寝ている先生へ、帰りますとだけ書き置きをし、僕は僕の教室へ向かった。


まだ少し明るい廊下を、誰にも見られていないのに、優等生らしく静かに歩いた。

蝉の鳴き声はいつの間にか、寂しげなヒグラシの声になっていた。


普段は学生の声で賑わっている学校も、夜になれば静かなもので、時計の針の音だけが刻まれていた。


僕は時計が苦手だ。まだこんな時間、もうこんな時間と、いちいち気分が揺らされるのが嫌だった。

でも今夜の僕は違う。時計をこんなにも愛おしく思う日が、今日以降訪れるだろうか。


そして君は現れた。

何時だったかも忘れてしまう、時計の針の音さえ聞こえなくなってしまった。

君は初めからそこにいたかのように、僕の前の席に静かに座って、海を眺めていた。

煌めきもしていない、暗黒そのもののような海を、まるで産んだばかりのわが子を見つめるかのように眺めていた。


「僕も、海が好きなんだ」


最悪だ。彼女も海を好きだとは限らない。

緊張で出た言葉に後悔していると、海を見つめたまま、彼女は呟いた。


「同じですね」


最高だ。彼女も海が好きだった。

緊張で出た言葉は最適なものだったのだ。


憧れの人と一緒に同じものを見ている。

僕にとってはそれだけで十分だった。

人生の夢が叶ったようだった。


「あなたはなぜここに?」


それを聞いたのは驚くことに、僕ではなく彼女だった。


「あなたに会いたくて」


僕は素直にそれだけを答える。


「人魚の伝説を信じますか?」


突拍子もない質問だった。

人魚の伝説。有名な話だ。人間の男に恋をした人魚が、魔女と契約をして人間になるが、男は他の人間の女を好きになってしまい、人魚は泡となって消える。

そんな話だったはずだ。


「信じるには、僕はまだ若すぎる。でもそれが事実だとしたら、嬉しいのかもしれない」


僕がそう答えると、彼女は僕に顔を向けた。

なんて美しいんだろう。美しいという言葉が果たして最上級の言葉だったのか、僕は自分の勉強不足を痛く感じた。

こんな話をしたのだから、鱗でもあるのかと思ったが、そうではないらしい。


彼女の美しい唇がぷるりと動く。


「あなた、嘘つきね」


彼女は僕の心を掴んで離さないどころか、抜き取ってしまいそうだ。


「僕の人生は嘘だらけだった。けれど、海と君が好きなこと、それだけが本当だよ。僕は君のためなら、何をしても、何をされてもいいと思ってしまっている」


紛うことなき事実だった。

それ以外の真実なんて、僕にとってはもう本当でも嘘でも、どうでもよかった。


「私と一緒に泡になってくれますか」


なんてことだ。彼女の恋が実らなかったとでも言うのか?人魚の伝説が信じられても、それだけは信じられなかった。


「君と一緒に泡になれば、永遠に一緒にいられるのかな?」


彼女は僕の目をじっと見つめたまま、静かに頷いた。


あぁ、なんて素敵な日だろう。

彼女と過ごす日々は、どれほど煌めいているのだろうか。



数日後、僕は一躍有名人となった。

捜索願を出されていたのだ。

それと同時に、ある噂が流れた。

夜になると、僕の学校の2年3組の教室の窓際の席に、淡く黒い影がふたつ並ぶ。そんな怪談話だった。



ねぇ、時間はたっぷりとあるんだ。

君の話を聞かせておくれ。



僕はもう、二度と嘘をつかなくていいんだ。

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