第9話 均衡



「——……やっぱり芹沢さん、疲れてるんじゃないですか?」


中井の言葉に、澪は微かに眉を動かした。


朝のミーティングで、澪はまた“指摘”してしまった。

正確に記憶していた数字の食い違い。

発言された日付。

担当者の名。


「そんな細かいこと……いいじゃないですか。現場は回ってるんですから」

江藤が軽く笑いながら言った。


誰もが、澪の“正しさ”を煙たがっていた。



---


澪は、帰りの電車の中で、立ったまま吊革を握りながら思った。


→ たとえ自分が間違っていなくても、

→ 誰かの感情を逆なですれば、“敵”になってしまう。


視界が揺れる。

電車の中の広告が、過去に読んだ新聞記事と重なる。

小学校の時に読んだ作文が、吊革のポスターの文字と重なる。


> ——また始まってる。


脳が、“今じゃないもの”を現在と同時に再生している。





---


夜。

澪は帰宅し、靴も脱がずに部屋に倒れこんだ。


リュックの中で、誰かの声がまたこだまする。

実際には聞こえていない。

けれど、記憶が勝手に口調まで再生していた。


「“優先すべきは児童書”、ってあなた言いましたよね?」


——それは、3日前の誤解。

でも音もトーンも、何度も何度も再生される。



---


冷蔵庫にあった野菜は腐りかけていた。

昨日も、おとといも、何も食べなかった。


湯も沸かしていない。

薬だけは、機械のように飲んだ。



---


> 「私が壊れていく理由が、

私の中にしか存在しないの、

ずるいよ……」




その言葉は、声にならなかった。

でも、澪の内側で何かが“音を立てて”ひび割れたのは確かだった。



---


翌日。

澪はいつものように出勤し、

いつものように返却処理をし、

いつものように忘れられた発言を補い、

いつものように無表情でうなずいた。


その日の午後、江藤が澪の耳元でぼそりと呟いた。


「……中井さん、もうさ、芹沢さんに何か言っても“都合よく編集される”って言ってたよ」


澪は、何も言えなかった。

口が、動かなかった。

その言葉の“意味”を脳が処理する前に、

心が沈黙を選んだ。



---


夜。

ソファに倒れたまま、

澪は“初めて言葉を発した”自分の過去を思い出していた。


小学校3年の頃。

作文の発表で、一字一句を覚えすぎて、

暗唱してしまったことを笑われた日。


「気持ち悪い」

「録音してんのかよ」


誰かが笑った声。

誰かが離れた気配。

誰かが“正しさ”を嫌悪した空気。


全部、今日と同じだった。



---


> ——私が正しく覚えているのに、


私が正しく生きられないのは、


私が、間違ってるからなの?




そう呟いて、澪は薬を取り出す手を止めた。


> 「……このまま飲まなかったら、

今日のことも、明日のことも、

もっとはっきり覚えられるのかな」




恐ろしいほど冷静に、そう思った。



---


その夜、薬は飲まれなかった。

澪の記憶は、鮮明さを取り戻す代わりに、

精神を削りはじめた。


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