episode2 声を持たない講堂
夢の街の空は、相変わらずグレーだった。
でも、どこか肌に触れる空気が柔らかい。
冷たい風は止み、空気に少しだけ湿り気がある。春が、訪れ始めているのかもしれなかった。
結月は、石畳の道を進む。
小さな路地を抜けると、古びた講堂の前に出た。重々しい扉が軋みを立てて開く。
中はしんと静まり返っていた。
照明は灯っているのに、誰もいない。
──いや、違う。
講堂の中央、ステージの上に、一人の少女が立っていた。
制服姿。手には原稿用紙。
けれど、彼女はその場に立ち尽くし、原稿を読むこともできずにいた。
結月は、そっと近づいた。
少女は振り返らず、ぽつりと呟く。
「……声が、出ないの」
「本当は、先生に……伝えたかったのに」
⸻
数日前──
彼女の学校に、短期間の教育実習で来た“ユウ先生”という若い先生がいた。
優しくて、気さくで、でもどこか距離感を大切にする人だった。
少女は、そんな先生のことを少しだけ特別に思っていた。
日直の仕事を通じて言葉を交わし、授業が終わってもノートの隅に絵を描いて見せたり、放課後に少しだけ話したり。
それは恋と呼ぶには些細で、けれど心をくすぐる日々だった。
最終日。
突然、担任に呼ばれ、「先生へのお別れの言葉をお願い」と言われた。
彼女は動揺したが、うなずいた。
でも──
当日、ステージに立った彼女の声は、震えすぎて出なかった。
原稿を持ったまま泣きそうになり、そのまま壇上から降りてしまった。
先生は、最後まで彼女の方を見ていた。
何も言わずに、微笑んで。
それから一度も会えないまま、卒業式も、春休みも過ぎていった。
⸻
「怖かったの。うまく言えなかったら、変に思われたら、って……。
でも今は、言いたい。
ありがとうって、さよならって。
……それだけなのに」
少女の手元には、白紙の原稿用紙。
言いたかったはずの言葉は、どこにも書かれていない。
「伝えたかったのに」
その言葉だけが、講堂の静寂に吸い込まれていく。
⸻
結月は、少女の隣に立った。
そして、ステージ中央に置かれたマイクの前に立つ。
マイクに口を近づけ──声を出す。
「──」
音が、出ない。
どれだけ叫んでも、何も響かない。
まるでこの空間全体が、言葉を拒んでいるようだった。
結月はポケットからペンを取り出し、少女に手渡す。
そして、原稿用紙に書いてみてと促す。
少女は震える手でペンを握り、そっと書く。
「伝えたかったこと、ひとつだけ」
「ユウ先生、ありがとう」
「あなたがいた日々が、楽しかったです」
「また、どこかで会えたら、嬉しいです」
その瞬間、講堂の入り口が軋んで開いた。
静かに、ユウ先生が歩いてくる。
以前と同じ白いシャツにジャケット姿。彼は優しく微笑み、少女の前に立つ。
少女は驚いたように目を見開いたが、やがて安心したように笑った。
彼女が原稿用紙を差し出すと、ユウはそれを受け取り、ゆっくりと目を通す。
そして──何も言わず、ただ頷いた。
その瞬間、マイクが音を拾った。
「……ありがとう、先生」
たったひと言。
けれど、その声は講堂いっぱいに響き、光となって天井へと昇っていく。
⸻
外に出ると、夢の街の色が少しだけ変わっていた。
建物の壁にうっすらとピンク色が差し、空には花びらが舞っている。
桜。
それはこの街に初めて訪れた“色”だった。
「……春か」
結月は、ひとりごとのように呟いた。
風が吹き、講堂の扉がそっと閉まる。
その奥に置かれた白紙の原稿用紙の一枚が、ふわりと宙を舞った。
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