エアポート。

志乃原七海

第1話『エアポート』

ベイサイドブルーの奇跡と、ちょっと残念な義弟


夜の帳が降りた空港は、ベイサイドブルーの静寂に包まれていた。遠く波の音が微かに聞こえ、滑走路の誘導灯がまるで地上の星のように瞬く。週末の夜、僕は決まってこの展開デッキに足を運ぶ。巨大な翼が夜空を切り裂き、轟音と共に離陸していく姿を眺め、風に当たる。それはいつしか、僕にとっての儀式となっていた。日常の喧騒から逃れ、広大な空と機械の鼓動に身を委ねる、かけがえのない時間だ。


しかし、あの日、いつもの静寂は、甘い囁きや笑い声で埋め尽くされていた。寄り添う恋人たちに囲まれ、ひどく空虚な気持ちになった僕は、ふと隣に視線を向けた。そこにいたのは、長い髪が風に煽られながらも、僕と同じように滑走路の向こうを見つめる女性だった。柔らかな月の光と誘導灯の淡い光が、彼女の横顔を幻想的に照らし出す。その美しさに息を呑んだ僕と視線が絡んだ刹那、彼女は人差し指を唇に当て、静かに「しー」と口止めしたのだ。そして、かすかに笑みを浮かべ、僕にだけ聞こえるような小さな声で囁いた。「わたしも、ひとり。…ね?」


凍りついていた僕の心の扉は、まるで魔法のように解き放たれた。離陸する飛行機の轟音が響き渡る中、彼女は周りのカップルたちにちらりと視線を走らせてから、もう一度僕に向き直り、小声で囁いた。「…こうしていれば、恋人に見えるからね」そう言ってクスクスと可愛らしく笑う彼女の言葉に、僕の心臓は驚きと喜びで大きく跳ね上がった。


結局、その夜、僕たちはもう何便かの離発着を見送った。言葉を交わすわけでもなく、ただ隣り合って、夜の空港の息吹に身を委ねる。名前を尋ねることも、連絡先を交換することもなかった。ただ、不思議で心地よい時間を共有し、最終便が消え去ると、彼女は「そろそろ、帰ろうかな」と立ち上がった。「ありがとう。楽しい夜だったよ」「私も。…じゃあ、またね」そう言って、彼女は誘導灯の光の中を歩き去っていった。僕はただ、その背中が遠ざかるのを、いつまでも見つめていた。


数日後、いつもの居酒屋で、旧知の友人タケシと飲んでいると、昨夜の出来事が思い出され、どうしても誰かに話したくなった。「なぁ、タケシ。聞いてくれよ、昨夜さ?空港の展開デッキにいつものように行ってたんだけどさ、すっごい美人が隣にいてさ?びっくりしたよ!」「へえ、お前がそんなこと言うなんて珍しいな」タケシは焼き鳥を頬張りながら、興味なさげに答える。「いやマジで、とんでもない美人でさ。しかも、俺が一人でいるの気まずいって思ってたら、向こうから話しかけてきてさ!『私、一人。ね?』だって!もう最高だろ?」僕が興奮気味にまくし立てると、タケシは呆れたような顔で僕を見た。「んで、名前は?年は?どこ住みだよ、その最高の美人さんは?」「…へ?」タケシの問いに、僕の頭は真っ白になった。「へ?じゃないだろ!?(笑)聞いてないのか!?まさかそこまで!?」店内にタケシの呆れたような、しかしどこか楽しそうな笑い声が響き渡った。


「だってさぁ…あの夜の空気感はさ、そんな現実的なことを聞くにはあまりにも美しくて、儚かったんだよ…!」僕の反論に、タケシは呆れ顔で鼻で笑った。「馬鹿かお前!それこそチャンスだったろ!『じゃあ、本当に恋人になっちゃおうか』くらい言えよ!」「うぅ…」ぐうの音も出ない僕に、タケシはさらに畳み掛ける。「お前なぁ、そういうところだぞ。いつまでたっても一人で空港で飛行機見てるわけだ。もう二度と会えないかもしれないんだぞ、お前。後悔するだけだぞ、きっと」


タケシの言葉に、僕はまた冷たいビールを煽った。あの夜の、ベイサイドブルーに溶け込むような美しい横顔が、ありありと脳裏に蘇る。後悔?もちろん、している。あの時、せめて一言、勇気を出して名前を尋ねていれば。


「…今度、今度会ったら、聞いておくよ」か細い声で呟くと、タケシは一瞬固まった後、さらに大きな声で笑い出した。「ははははは!今度!?あるわけねーだろ、そんな奇跡がまた!お前、どんだけ都合のいい世界に生きてんだよ!」タケシは腹を抱えて笑い続ける。


その時、**カラン!**と店の奥から乾いた音が響いた。反射的に振り返ると、そこに立っていたのは、あの夜、ベイサイドブルーの空港で僕の隣にいた、あの髪の長い女性だった。僕の呼吸は止まった。「…まさか……」タケシが、か細い声で呟いた。しかし、その硬直した空気は、唐突に破られた。「…んなわけねーだろよ、おい!(笑)」「…よく見ろよ、バカ!違うだろ!髪型と雰囲気、ちょっと似てるだけだろ、こんな居酒屋にそんな美女いるわけねーだろ!」タケシの言葉に、僕はもう一度その女性に目を向けた。――確かに。居酒屋の蛍光灯の下では、その女性はただの「きれいな人」でしかなかった。


僕は力なくうなだれた。しかし、心のどこかでは諦めきれない自分がいた。「だってさ?俺、毎週空港に行ってたんだよ。毎週、週末の夜に、あの展開デッキに。あの日だって、いつものように行ってたんだ。きっと、彼女もそうなんじゃないかって…そしたら、きっと、また会えるんじゃないかって…」僕の言葉に、タケシは大きく、深いため息をついた。「…はあ…」諦めと、どこか哀愁を帯びたそのため息は、僕の根拠のない希望を打ち砕くことはできなかった。


そして、その言葉が、現実となった。


数ヶ月後、季節は移ろい、僕は相変わらず、毎週週末の夜には空港の展開デッキに足を運んでいた。いつものようにフェンスにもたれかかり、滑走路の向こう、誘導灯の連なりを眺めていた。その時、ふと、隣に気配を感じた。振り返る。そこに立っていたのは、あの夜と同じ、長い髪を風になびかせながら、遠くを見つめる女性だった。彼女は、少しだけ髪を手で押さえている。あの夜と寸分違わない、美しさ。そして、紛れもない、彼女の存在。


彼女も、僕の視線に気づいたように、ゆっくりと僕の方へ顔を向けた。そして、あの時と同じ、いたずらっぽい、しかし優しい笑みを浮かべた。


「…また、お会いしましたね!」


奇跡は、本当に起こったのだ。あのタケシが呆れてため息をついた、ありえないはずの「伝説的な再会」が、今、ベイサイドブルーの夜の下、現実のものとなっていた。


僕は、今度こそこのチャンスを逃すまいと、必死に言葉を紡ぎ出した。「あ…あの、もし、良かったら…この後、食事でも、どうですか?」彼女は一瞬きょとんとした後、ふっと唇に笑みを浮かべ、迷うことなく頷いた。「はい!いいですよ」その簡潔な返事に、僕の全身から力が抜けていくような安堵感が広がった。


数週間後、僕は居酒屋でタケシに再会の顛末を報告していた。僕の話が進むにつれ、タケシの顔は驚きと困惑の色で染まっていく。そして、僕がミカと次に会う約束をしたことまで話し終えると、タケシは大きく息を吐き出した。


「まじか(笑)」


タケシはそう言って、僕の顔をまじまじと見つめた。その笑いは、これまでのようなからかいの笑いとは少し違っていた。呆れと、困惑と、そしてどこか諦めが混じり合ったような、複雑な笑いだった。


「お前、本当に運がいいんだか、悪いんだか…」タケシはそう呟くと、ポツリと、しかし決定的な一言を僕に告げた。「…あのさ、お前、そのミカって子の名前、フルネームで聞いてるか?」「いや、下の名前だけだけど…」タケシは、顔を覆い、盛大にため息をついた。そして、ゆっくりと顔を上げると、観念したような、しかしどこか悪戯っぽい笑みを僕に向けた。


「…まじか(笑)…俺の姉さんなんだよな(笑)」


僕の頭は、一瞬で真っ白になった。タケシの姉さん?あのミカが?まさか。タケシは、僕の真っ青な顔を見て、さらに声を上げて笑い始めた。


(ミカサイド)

もちろん、彼のことは知っていた。タケシから、いつも酔っぱらうと「またあいつ、週末に一人で空港で飛行機眺めてるんですよ〜」と聞かされていたから。空港で彼を見つけた時、「ああ、タケシの友達の、あの飛行機大好き人間だ」とすぐに分かった。彼の、少し寂しそうに、でもどこか満たされた顔で空を見上げている姿が、妙に気になっていたのは、本当だ。『しー』と指を立てたのは、私の悪戯心。そして、『私もひとり。…ね?』と話しかけたのは、単なる気まぐれ。でも、その時の彼の反応が、とても新鮮で可愛らしかった。一度だけのつもりだったけれど、それから毎週、週末の夜に空港に行くたびに、彼がいる。そのうち、彼がデッキに来るのが、私の週末の楽しみになっていた。再会は、偶然を装った、私からのプレゼントだ。あの居酒屋は、タケシがよく利用する店だと知っていたから、彼がタケシと飲んでいると聞いて、わざと向かった。醤油差しを落としたのも、もちろんわざと。まさか、タケシがこんなに派手にバラしてくれるとは思わなかったけれど。私にとっては、最初から仕組まれた、ちょっとしたゲームだったのかもしれない。でも、そのゲームは、思ったよりもずっと、私の心を躍らせてくれた。


タケシは笑いながら僕の肩をポンと叩いた。「んじゃま、これからは、兄弟仲良くってことで、じゃ、兄さんよろしくね!」タケシはそう言い放つと、僕のジョッキを自分のジョッキに「カン!」と勢いよくぶつけてきた。「やめろよ、タケシっ!」僕は慌てて叫んだ。


それからの一年は、あっという間だった。ミカと僕は、毎週のように空港の展開デッキへ足を運んだ。タケシは、相変わらず僕を「兄さん」と呼んでからかい続けたが、次第に応援してくれるようになった。そして、ある年のベイサイドブルーの夜。僕がミカに初めて出会った、あの展開デッキで、僕は彼女に指輪を差し出した。「…これからも、僕の隣で、僕の人生の続きを、一緒に見てくれませんか?」ミカは、僕の顔を見て、あの時のように、ふっと笑みを浮かべた。「はい。喜んで。」


1年後、二人は結婚へ。


結婚式の当日。僕は純白のウェディングドレスを纏ったミカの隣に立ち、人生で最高に幸せな瞬間を迎えていた。披露宴で、僕がミカとの馴れ初めを語り、空港での「奇跡の再会」と、その後のタケシによる「まさかの種明かし」の場面をユーモアを交えて披露すると、会場は大きな笑いに包まれた。


スピーチを終え、ミカと顔を見合わせて笑い合ったその時、会場の隅でタケシが友人たちと話している声が聞こえた。「お前ら、ウチの姉さん、キレイだろ?俺の自慢の姉さんだよ!」友人たちが感嘆の声を上げる中、一人の友人が首を傾げて呟いた。「…え、でも、タケシのお姉さんなんだろ?しかし、タケシ!似てねーな(笑)」その言葉に、タケシは「はぁ!?」と声を上げ、友人たちと小競り合いを始めた。


「なんでそんな美人の姉さんの弟なんだ?!」口々にそんな言葉が飛び交い、会場のあちこちから、堰を切ったように参列者全員の大爆笑が巻き起こった。タケシは、顔を真っ赤にして叫んだ。「てめぇら!親族に向かって何言ってんだよ!似てねーってどういうことだよ!俺だって男前だろ!?」


その時、僕はミカの腕をそっと離し、一歩前に出た。そして、満面の笑みで、会場全体を見渡した。僕の声に、会場が少し静かになる。「皆さん、ご紹介します!こちらの、僕の横にいるのが、僕の妻になったミカです!」そして、僕はもう一度、タケシの友人たちが集まる方へ視線を向け、彼らに向かって、少しおどけたように、しかしはっきりと、大声で叫んだ。


「義理の弟だから!似てなくてすみません!(笑)」


僕の言葉に、一瞬の静寂が訪れた後、会場は今日一番の大爆笑に包まれた。タケシは、僕の突然の援護射撃(というか、燃料投下)に、目を見開いて固まっている。僕は、笑い転げる参列者たちと、呆然とするタケシを見ながら、心の中で叫んだ。


「助かった!タケシ!ナイスアシスト!」


ベイサイドブルーの空港で始まった、僕だけの、奇跡の物語。

それは、最高の愛と、最高の家族、そして、最高の「いじられキャラ」である義弟との、無限に続く笑い声に満ちた日々へと繋がっていったのだった。


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エアポート。 志乃原七海 @09093495732p

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