ある老教授の熱血講義

よろしくま・ぺこり

第1講 オリエンテーション

 横浜市港北区にある私立天熊総合学園大学政治経済学部教授、外堀晋作そとぼりしんさくは研究室のソファで煙草のヘブンスターを何本も吸い付けていた。大学構内は全面禁煙であり、この行為は規律違反なのだが、外堀は35年来、1日に5箱のヘブンスターを吸うチェーンスモーカーであり、とてもではないが大学の最北端にひっそりとある喫煙所まで約3キロの道を往復することなど考えられない。外堀はかつて東京大学の大学院で経済学の主任教授を務めており、その時に天熊総合学園大学の創設者を指導した恩師であり、東京大学を退任したときにその大学の創設者に三顧の礼で天熊総合学園大学に迎えられたので、他の教員や職員たちに一目置かれていた。なので、学園理事長の諸葛純沙から特例として外堀の研究室のみエアドッグ5台を置くことを条件に喫煙を許されていた。ただし、エアドッグ5台の購入料は外堀の自腹である。


 外堀は現在六十歳。専攻はいまや絶滅危惧種と呼ばれる『マルクス経済学』である。このご時世にマル経を学ぼうと思う学生はほとんどいない。ましてやカール・マルクスの『共産党宣言』や『資本論』などのテキストを通読するような好き者は日本共産党の党員でも何人いるかどうか甚だ疑問である。もちろん、外堀は若い頃に通読しているが現代の学生にマル経を教えようとしたら、誰一人受講しないであろう。それに外堀はマルキストではない。中道から少し左寄り程度である。


 天熊総合学園大学の月給は受講する学生数によって決まるので、外堀は根底にはマル経のエッセンスを隠し味にしながらも最新の政治経済学をわかりやすく教えるという老教授にしては柔軟な考えで、ある程度の受講者を獲得している。


 実のところ外堀は東京都港区に広大な自宅を持つ上に静岡県伊東市に別荘も所有している富裕層なのでカツカツ仕事をする必要はない。だが、根っから若い学生に講義をするのが好きで、アクティブに講義をしている。


 外堀の煙草好きは前述したが、酒も大好きでかつては一升瓶の日本酒を呑んでもけろりとしていた。しかし、57歳の時に軽い肝硬変の疑いが発覚し、以後は一滴たりとも呑んでいない。一度決めたら意地でも守るのところに意地っ張りな性格が見て取れる。といいつつ、実は人工透析になるのが怖いだけともいえる。


 さて、時刻は午後1時15分。

「うむ」

 外堀は研究室の席を立ち、『政治経済学特講』の講義のため教室に向かう。天熊総合学園大学の三限の開始時間は1時ジャストだが、大学教授というものは15分から20分遅れて行くのが慣習になっている。講義時間は1時間30分だから、フルに講義をしてしまうと学生もダレるし、外堀の喉ももたない。それにさすがのチェーンスモーカーの外堀も講義中は喫煙をしない。そんなことをしたら今どき、なにハラスメントかで学生たちから訴えられてしまう。外堀は常識人である。ぐっと我慢をするのである。


『政治経済学特講』は政治経済学部三、四年生の必修科目と同時に文学部・法学部・スポーツ科学部・芸術学部の一、二年生の一般教養選択科目でもある。だから、あまり深い部分まで入ってしまうと学生に逃げられてしまう。

 なので、テキストなどは購入しなくて良いことにしている。外堀は専門書を三十冊ほど著しているが内容が実に難解で売行きが芳しくない。その一方、趣味が昂じて書いた歴史・時代小説がプチブレイクして、ついには『直木三十五賞』を『鬼の応仁の乱』というタイトルで獲得している。もちろん、覆面作家としてペンネーム“北条紀典ほうじょうのりすけ”を用いて正体を隠している。これが学界にバレたら笑いものになる。そういう世界なのだ。


 教室に入る。

 今日の講義は本受講を決めるための顔見興行みたいなものなので、学生も60名くらいと比較的多めの人数が教室にいる。これが本講義になったら30名くらいに落ち着くだろう。外堀は文学部日本文学科の有象教授や史学科世界史専攻の里見教授のような人気講師ではないので、こじんまりした全学生に目が届くくらいの講義が心地良く話せる。学生が多すぎると若干の緊張で血圧が上がり、肝機能の値が悪くなる。


「みなさん、こんにちは。担当の外堀です」

 淡々と話しだす。余計な自己主張は得意でない。

「今日はオリエンテーションですから、みなさんに簡単な質問をしましょう。さて“この国で一番偉いのは誰でしょう?”」

 唐突に訊ねてみる。学生たちは、

「天皇陛下です」

「内閣総理大臣ですか?」

 と真剣に答えたり、

「大谷翔平!」

「大の里」

「デビ夫人?」

 などと大喜利めいたギャグをいう者もいた。個人的にはそういう答えは好きだが、本学の学生の知的レベルが知れて悲しい。よくFランクと揶揄される大学があるが、ここはZランクだなと感じてしまう。

「いろいろ、といっても5名ですが、名前が出ましたね。そのうち一応当たっているのは3名です。『日本国憲法』には主権は国民にあると明記されているのです。ですから日本国民である内閣総理大臣と大谷選手と大の里関は主権者です。天皇陛下や皇族方は日本の戸籍にお名前が載っておらず『皇統譜』という別のものにお名前が記されているので主権を持っていません。デビ夫人は現状、日本国籍を有していないようなので今後日本に帰化するまでは主権がないのです。彼女はもともと日本人ですが、インドネシアのスカルノ元大統領の何番目かの夫人になり、インドネシア国籍になっていたのですね」

 学生から中途半端に「へぇー」という声が上がった。

「この質問で私がいいたかったのは“主権は国民にある”ということです。つまり満十八歳以上の方、全員がこの国で一番偉い人なのです。その力を最大限に行使することができるのが各種選挙での投票行動です。選挙こそみなさん、といっても十八歳以上の方ですけれど、みなさんの持てる力を発揮できると『日本国民憲法』は声高らかに謳っているのです。近年、SNSの普及で若年層の選挙投票率が多少上がったようですが、高齢者層と比べるとまだまだ低い低い。みなさんの将来を左右するのが選挙です。どこの政党かはいいませんけれど、カネこそ力みたいな思想を持ち、自分たちを律することができず、『政治資金規正法』も改正できず、国民を不幸のどん底に落とすような法案を閣議決定だけで通しまい、『官房機密費』を本当に好き勝手に使う、江戸時代の悪代官のような輩には退場してもらいたいというのが私の本音です。けれど、これは個人の感情ですからみなさんは自分がここが一番良いと思う個人、政党に投票してください」

 ううん、年寄りのくせにかなり喋りすぎた。外堀は一息ついた。

「申し訳ありません。老人の長話につき合わせてしまいました。しかし、次回からもこのようなスタンスで講義をしますので、ウザいと思った方はこの講義を回避してください。『政治経済学特講』はもう一人、若手の森永准教授も担当していますから彼の方が実践的でわかりやすいと思います。私の学問の根本は『マルクス経済学』ですので時代遅れのカビだらけです。ただ、みなさん。どんな時も絶望だけはしてはいけません。苦しい時も心に希望だけは持ち続けて欲しいです。では今日の講義を終わります。さようなら」

 そういうと、外堀は足早に教室を出て研究室へ戻り、ヘブンスターを吸おうとしたが、なんということだろう。完全に切らしていた。慌てて学外のコンビニにヘロヘロになりながら買い出しに行った。コンビニは長くて急な坂の下にしかない。

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