第7話 その拳は、届かなくても折れないから

「兄さんが、まだそんなこと言うなら――力づくで黙らせるしかないよね」


言葉の先に、拳があった。


俺はそれを真正面から受け止めることはできなかった。空間が軋み、肋骨が悲鳴を上げる。

倒れる体を必死で支えながら、胸の奥に湧き上がる疑問を抑えきれなかった。


――なぜ、ユイと俺が、戦っているのか。


すべては三日前。

「努力しても届かないことなんて、山ほどあるんだよ」とユイが言った。


それは彼女なりの優しさだったのかもしれない。

でも俺は、どうしてもその言葉を飲み込めなかった。


「努力が無意味なんて、俺は信じたくない」


俺はずっと、ユイの背中を追い続けてきた。

才能がない自分を恥じて、誰よりも努力した。

だけどそのたびに、「お兄ちゃんは、何も持ってないくせに」と笑われた。


それでも――あきらめたくなかった。


だから俺は、ユイに挑んだ。

彼女を超えられないとしても、この想いだけはぶつけたかった。


ユイは、かつて俺のノートで勉強していた。

真っ黒になるまで書き込んだ、数百枚の反復記録。

それを誰よりも読み込んだのが――他でもない、ユイだった。


「……私ね、ずっと兄さんのノートで勉強してたんだよ」


唐突な言葉に、動きが止まる。


「努力って、すごいと思う。でも……私、それでも届かないものがあるって、知っちゃったの」


だからこそ、否定したかったのかもしれない。

努力がすべてだと信じてしまったら、

自分の“特別さ”も、“兄さんの痛み”も、全部壊れちゃうから。


ユイの視線が揺れた。拳を構えながらも、その拳が震えている。


「兄さんのこと、ずっと見てた。でも私……もう、どうしていいかわかんないんだよ……!」


「ユイ……」


今、こうして殴り合っていることに意味があるのかは分からない。

けれど、俺にとっては“逃げなかった”という事実こそが、唯一の誇りだった。


「……ったく、まだ立つんだ。バカ兄貴」


ユイは呆れたように笑う。けれど、その奥にほんのわずかな――揺らぎがにじんでいた。


「もう諦めてよ。才能ないって、あんたが一番わかってるでしょ?」


「知ってるさ。でも、諦めるのと、立ち止まるのは違う」


呻きながら立ち上がり、拳を握る。全身の筋肉が軋む。

限界は、とうに超えていた。けれど、それでも、一歩。


また一歩。


俺の拳が、ユイの頬をかすめた。


「――っ」


ユイの表情がわずかに揺れる。


「何それ……本気で殴る気だったの?」


「本気じゃなきゃ……ここまで来れてない」


静かな言葉の中に、確かな覚悟があった。


ユイは拳を下ろした。


「……わかったよ。じゃあ、次は“本気”でいくから」


空気が変わる。

雷鳴のような力が、ユイの周囲に集まっていく。


「“才能”ってのが本当に無敵なら、俺は“執念”でそれをぶっ壊す」


俺は、全身で跳びかかった。


この一撃は、きっと届かない。

でも、俺の想いだけは――折れたりしない。

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